―34―「曇徴壁画 貳幅」を借り出した例があったことからも、その可能性は高いと思われて賦彩し、より忠実な模写を完成させたといわれている。経済的な後ろ盾もなく、単身で原寸大模写を完成させるには、その解釈は妥当ではないだろうか。それでも一個人での模写作業は労力的、金銭的に困難を極めたと思われ、崇高な信仰心と強い精神力があってこその偉業といってよいだろう。制作時期については、模写開始を明治40年代とする説と大正5年頃とする二説が挙げられるけれども、あらためて資料を精査してみたい。最も早く金堂壁画と関係する作品が確認されるのは、明治39年(1906)5月の秋田伝神画会(注2)に出品された《阿弥陀三尊図》〔図1〕である。それは当時貴族院議員で後援者でもあった坂本理一郎氏の所蔵品で、空如が寄贈した内の一点である。この作品は6号壁の阿弥陀三尊をモチーフにして、図様を復元し壁画制作時に近い彩色を試みている。阿弥陀仏はほぼ原画通りだが、向かって左の勢至菩薩は合掌、右の観音菩薩は蓮華をとった姿で、空如の独創をまじえながら原画の品格そのままに描かれている。特に、金堂壁画に特徴的な衣紋線に沿った暈取りの表現や、阿弥陀仏の後屏や蓮華座の意匠が緻密に再現されている点が注目される。作品の完成度の高さや大きさからしても、制作および壁画の研究に相当の時間を要したと思われ、制作時期は、発表の2、3年前、つまり東京美術学校研究科時代に遡ると考えられる。大正11年(1922)には、法隆寺で模写する姿を見たという証言が残っている。空如の親類にあたる高橋堯が18歳の時、すなわち大正11年に法隆寺で模写をする姿を見つけたが、一心に模写する姿に声をかけそびれたという極めて具体的な証言である(注3)。昭和期になると、昭和7年(1932)3月と4月の国宝名画模本展を視野に入れ、昭和5年(1930)秋から再度の金堂壁画模写に着手していることを、書簡に記している。展覧会を繰り返し開催したい意思があり、将来的な模写の傷み等を配慮して第2作目に取り組んだようだ。また同年中には第3回模写に着手し、その制作は昭和10年(1935)まで継続されている(注4)。以上から、第2作目は昭和5年秋から7年冬、第3作目は昭和7年秋から11年にかけて制作されたと考えられる。ただし、肝腎の第1作目に関しては具体的な証言が残っていないのだが、空如が香雲模写を参考にしていることを考慮すると、帝国博物館(当時)所有の香雲模写に接する機会は、東京美術学校在学中が最も自然ではないだろうか。東京国立博物館には、明治28年頃から30年の東京美術学校生による図画書籍借用書が残っており、「法隆寺壁画模本 貳幅」る(注5)。つまり空如は、東京美術学校在籍中に、櫻井香雲模写の金堂壁画に接し
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