鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―35―て大きな感銘をうけて、深く研究するために博物館より香雲模写を借用し臨模したのではないか。昭和8年(1933)空如60歳で記した「私こと三十余年来、生命を賭して天の使命を果たすべき、壁画複本の一尊なるも殖えるを何よりの喜びと悪戦苦闘の苦心の故か、両人とも至極頑健に候。」(注6)との一文からも、明治36年(1903)頃には既に金堂壁画に強く魅了され、それを模写することが、画家として仏道を歩む自らの使命と考えていたことが分かる。これまで明治40年代に模写に着手したとする説のほとんどは、昭和24年(1949)のリッカーミシン株式会社主催「空如画伯模写展」パンフレット中の藤懸静也氏の解説文に基づいている。ここで問題となるのは、明治40年(1907)頃から空如は神経衰弱と不眠に悩まされ、度々転地療養を繰り返していることである。そうした健康状態にあって、壁画模写という大事業に取り組み始めるとは考えにくい。また大正5年(1916)頃に着手したとする説もあるが、大正4年(1915)には壁画保存調査委員会による調査が開始されていること、大正7年(1918)5月には壁画は保存のために平常はカーテンと木欄によって拝観が出来なかったことなどから推測すると、模写開始は困難な時期だったのではないだろうか。従って第1回の模写は明治30年代後半、東京美術学校研究科修了前後に始まり、高橋堯が模写姿を見たという大正11年すぎまで、20年余をかけて行われたものと考えたい。空如は生前に50回を数えるほど度々奈良に通ったことを周囲の人々に語っており、おそらくその大半がこの時期に集中していたのであろう。3.櫻井香雲の模写について次に、櫻井香雲による初の金堂壁画原寸大模写について整理してみたい。香雲は天保11年(1840)大阪に生まれ、田中友美の画塾で修業した後、全国を遊歴し生計をたてていた。香雲が金堂壁画模写に携わるようになった経緯は明らかではないが、明治17年(1884)7月12日の『法隆寺日記』に香雲が博物局から模写の命をうけて、法隆寺を訪れたことが記されている(注7)。大壁4面、小壁8面、山中羅漢図3面の模写完成時期は、岡倉天心の言及によると明治20年(1887)頃と考えられる(注8)。これらは、明治22年(1889)5月帝国博物館と改称される際に旧博物館から引き継がれ、現在も東京国立博物館に保管されている。香雲は晩年、東京に移り住み、東京美術学校絵画科で非常勤のような身分で働いていたようだ(注9)。帝国博物館が東京美術学校に委嘱して行われた古美術品の模写・模刻事業にもたずさわっており、明治24年(1891)7月には《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》《四天王像》《梵天帝釈天》計7点も

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