―443―で多様な作例が伝わっていることも瀬戸内の地域性と考えられる。白衣観音図の図像成立についてはこれまでに多くの論考があり、密教図像の中にみられる白処観音の図像、唐代に新しく周|が作り出した「水月之體」といわれる水月観音の図像とその流行、さらに、補陀落山中の自然景のなかに描かれた図像などが宋代以後の白衣観音へと変遷していったと考えられている。また南宋期に士大夫層に信仰された在家の居士の理想の姿としての白衣観音の姿が反映されていると井手誠之輔氏が指摘している(注6)。このような宋代以後に定着した自然景のなかに坐す白衣観音図については、現存作例から細部に少しずつ違いがあるものが多種存在していたと推察される。初期の請来白衣観音図としては大徳寺五百羅漢図中の画中画の白衣観音図などが想定され、それらが日本に請来され藍本となり類例が数多く制作されたと考えられる。二、月・韋駄天がモチーフとして取り込まれた作例こうした請来白衣観音図を考える際に興味深い楊柳観音図が、京都万福寺万寿院に所蔵されている〔図12〕。楊枝を手にし岩に肘をかけてくつろぐ楊柳(白衣)観音で、同図像には明兆筆白衣観音図(MOA美術館所蔵)、明兆筆三十三観音図(東福寺蔵)三十三幅中「黒風吹其舩舫」など多数確認できる。彩色は現在大分剥落しているものの、本来は濃彩で描かれており、髪を群青、白衣には白色顔料、唇には朱、楊柳の緑は今でも鮮やかであり、衣紋は抑揚のある墨線であらわされ上から金泥で文様がいれられている。明兆が活躍した頃と同時代もしくは少し下る頃の制作と考えられる。彩色白衣観音図が室町期にも制作されていたことは、明兆筆白衣観音図(MOA美術館蔵)などの作例によって知られ、かつ別の彩色図像が存在したことが指摘できよう。そして特徴的なのが本図には、画面向かって左上に円相が表され、画面向かって右上に韋駄天が組み合わされて描かれていることである。以下月と韋駄天のモチーフについてみていく。白衣観音と月について具体的に説く教典は管見の限り見あたらないが、虎關師練の「白衣觀音月在波底」と題した白衣観音図への賛として、『濟北集』巻1に「乖崖峭壁即爲宮 練%縞裙還飾躬 震嶺海潮天月落 眼聲耳色自圓通」とあり、さらに中巖圓月『東海一&集』に「白衣大士 入理深矣 抱膝低頭 思惟不起 任它驚浪觸危巖楊柳在瓶月在水」と白衣観音が、奇岩の上で一人膝を抱えて思惟し、側には楊柳の瓶、水に月が映っている姿をのべたものなどが確認できる。次に実際に図中に月のモチーフを持つ作例は、天庵妙受賛白衣観音図のほか、伝月壺筆白衣観音図(大阪市立美術
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