鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―445―これらの作例からも韋駄天のモチーフを取り入れた白衣観音図にも水墨、彩色例がみとめられ、さらに韋駄天モチーフは、現存作例からみると元明の作例により積極的な影響関係をみることが可能である(注15)。以上のように白衣観音図中に描かれるモチーフについてみていくと、これら月・韋駄天のモチーフが描かれた白衣観音が三十三観音図に確認できる。三十三観音図は『法華経』「観世音菩薩普門品」に説かれる観音の三十三の応身をあらわしたもので、現在明兆筆三十三観音図(東福寺蔵、ただし二幅は狩野山雪の補作)、やや時代が下った絹本墨画(中尊のみ着色あり)長楽寺本が確認されている。また大倉集古館蔵探幽縮図に円相内に描かれた三十三観音図、建長寺に観音像三十二幅が伝わる(注16)。また模本と探幽縮図から雪舟が三十三観音図を描いていたことがわかっている(注17)。明兆筆三十三観音図(東福寺蔵)中「辟支佛身」には水面に映る月が描かれる一方、長楽寺本は水面の月を眺める観音が2点、空中の月を仰ぎ見る観音が1点、上空に韋駄天が浮かぶものが2点確認できる。さらに建長寺本も画面中に月が描かれるものが2点、韋駄天が描かれるものが3点確認できるなど、長楽寺本、建長寺本は東福寺本に比べ同じモチーフが重複し、そこから同じモチーフをもつ別の藍本の存在が類推できる。さらに長楽寺本と建長寺本とで韋駄天が描かれる幅の観音の図像には違いがみられることから、尊像である観音とその他のモチーフの組み合わせが行われていたとも考えられる。このように観音が三十三観音図として集約されたことを考察する際、版本の「出相観音経」の図像が注目されている。その中でも公武12年(1395)に刊行された版本「出相観音経」の場面と、明兆筆東福寺三十三観音図画面の下部の図様が類似し藍本とされた可能性がきわめて高く、同様に上部の白衣観音図についても三十三観音図の藍本の存在が指摘されている(注18)。しかし長楽寺本、建長寺本、探幽縮図の図像に目をやると、背中を向ける観音、足を流れ落ちる瀧に足をひたす観音など自由な姿態をとり、そこには観音を拝む、すなわち観音の示現した姿を見るというより、より人間に近い観音の姿を求めたのではないかと思われ、図像的に三十三観音図としてまとめられた藍本をそのまま参照して制作されたとは考えにくい。長楽寺本、建長寺本には月、韋駄天の外にも、龍、善財童子、鳥などといった別のモチーフが描かれ、そうした他のモチーフは、岡山県立美術館本に韋駄天と龍が、龍王として人の形をとったものにメトロポリタン美術館蔵水月観音図、大徳寺蔵水月観音図(注19)、ほか龍王のモチーフは、高麗の水月観音や、西夏時代(11〜13世紀)

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