鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―446―「法華経変相図見返絵」などにもみられ、明代のもので台北故宮博物院蔵「書仏頂心観世音菩薩大陀羅尼経見返絵」には龍王、韋駄天、善財童子が描かれる。このようなモチーフの混じり合いや、様々な姿態の観音の出現については、明代の禅宗社会のみならず、明清時代に高まる観音の民間信仰について(注20)、魚藍観音や送子観音といった多様な観音像の存在からも今後さらに検証していく必要がある。むすびにかえて今回取り上げた瀬戸内に残る白衣観音10点について(注21)、9光明寺本は同寺塔頭南之坊に伝来したものである。同坊の檀那鳥居資長は村上水軍の将で、寺伝では光明寺本は鳥居資長の持念仏であったとされている。10点の中でひときわ小さい尊像をみるとき、これが寺院の中ではなく、船中にかけられていたという説はうなずける。6香川県個人蔵本は、箱書よりもとは金光院の什物だったことがわかる。金刀比羅宮は金毘羅神が海上交通の神として近世以降民間に広く信仰され、金光院はその別当である。清瀧寺は江戸初期に玉島干拓を祈願し建立された羽黒神社の別当寺であり、2清瀧寺本は延宝元年(1673)4月に開山の仙海が同寺に納めたものである。清龍寺本の伝来の背景にも干拓の成功つまり水難に対する観音への信仰がみてとれるのではないだろうか。今回とりあげた観音図10点のうち、残念ながらすべての作品の伝来が詳細にわかっているわけではない。しかし、数点ではあるが、観音のもつ力のうち、水難救済に対する意識が強いことは明らかである。瀬戸内地域は山陽道という古代から陸の路に加え、船の航行の為の港や島々の浦が発展してきた。交易の「場」としてこの海域を考えるとき、『法華経』「観世音普門品」に説かれる観音の水難救済、海上安全を託す海上交通者の存在は容易に想像できる。以上、瀬戸内に遺された白衣観音図を端緒として、水墨、白描系の白衣観音だけでなく、着色の白衣観音が制作されていたことを確認し、白衣観音図の図様とその後の展開について、観音図像のバリエーションと月と韋駄天などのモチーフの混合という視点から、さらに一歩進めて三十三観音図成立の一側面も含めて考察を試みた。今回は図像の説明に偏った感があるが、今後は様々な図像をもつ個々の白衣観音図についての更なる思想的な背景について、さらに受容されていた当時の「場」についての視野も含め今回纏めた論考をより確かなものにしていきたい。

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