鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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注1417年(応永24)。賛者怡雲寂?は東福寺にて長らく書記をつとめた東福寺大慈門派の禅僧。怡雲は寺伝によると中国金山寺に留学し帰国後観音の霊告によって温泉を掘り当てたという。(福島恒徳「三恵寺蔵白衣観音図―賛者怡雲をめぐって―」『山口県文化財』第20・21、1990年) 観音の霊場として名高い浙江省舟山群島普陀山の潮音洞は「菩薩示現之所」として「補陀洛迦■広島県指定重要文化財。癡絶道冲(1169〜1250)の賛により1250年を下限とする南宋画の遺例とされている。ただし、これは日本での写しの可能性も指摘されている(井手誠之輔「図版解説 長野・定勝寺所蔵 補陀洛山聖境図」『美術研究365』,1996年)。制作時期の14世紀という点には筆者も同意するものであり、日本での制作の可能性も今後併せて考えていきたい。■同市内西山寺に手に柳枝鉢をもつ同図像の楊柳観音図摺写本が伝わる〔図11〕。図中右上に「明萬暦戌申寧紹泰将天台判炳文立千普陀山之楊枝庵」とあり、浙江省普陀山楊枝庵の石刻楊柳観音を写したものだとわかる。現在の石刻像は明万暦年間に制作されたものだが、図像自体は唐代の画工閻立の描いたものを拓本にとって描いたといい、もとは白描の観音図像から石刻されたと考えられる。■初期水墨画といわれると墨画の作例が多いという認識が一般的であるが、同時代では同じく彩色の作例も制作されている。これは瀬戸内地域の特徴というより、初期水墨画全体にみられる特徴であり、様々なバリエーションのものが伝来しているといえるだろう。■藩亮文氏はまず楊柳観音そして、水月観音、白衣観音へ発展したとおおよその発展を経典・作例から導き出した。(「中国における観音菩薩像発展の一研究―主として五代・宋時代の水月観音,白衣観音,楊柳観音を中心に―」『鹿島美術研究』13、1996年)井手誠之輔『日本の宋元仏画』至文堂、2001年■高麗時代の水月観音図養寿寺本、長楽寺本、メトロポリタン本、MOA美術館本、日本個人本の■瀑布連雲皎潔(瀑布は雲に連なって皎潔)」桂轂陰水銀娟(桂轂は水に印して銀娟)と落ちる海老根聰郎「長帯観音図」解説『水墨画と中世絵巻』講談社、1992年太田孝彦「万里集九賛韋駄天図」解説『禅林画賛』毎日新聞社、1987年、彌永信美『観音変容井手誠之輔『日本の宋元仏画』至文堂、2001年「觀音賛 上有韋駄天現雲間、出世何曾隔世間、美哉霧誂與風鬟、應以韋駄身得度、春回南海白花山」(『横川景三集』)とあるように、韋駄天が雲間から現れた姿としてあらわされたためと考えられる。「出世何曾隔世間、美哉霧誂與風鬟、應以韋駄身得度、三千刹界白花山 春浦拝書」横川景三多くの場合妙法蓮華経第7冊の末尾に韋駄天が描かれるとされる。(『妙法蓮華経』展図録「附―447―山傳」『大正新脩大藏經』第51No. 2101に記述がある。5つに月が確認できる。鄭于澤『高麗時代の仏画』2000年、時空社瀧朝子「水月観音図に描かれた人物像について」『大和文華』111、2004年滝や水に映った月に観音の「普現」があると解釈される。大西昌子「白衣観音図」解説『禅林画賛』毎日新聞社、1987年譚』41頁 宝蔵館、2002年の賛も内容はほぼ同じである。録 本院典蔵法華経変相内容説明」台湾故宮博物院、1995年)

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