鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―455―うか。縁起6巻のテキストによれば、応仁の乱の兵火には類焼しなかったものの、本尊は京に移り北野社のそばに安置され、文明2年(1470)にはさらに浄教寺に移って文明9年(1477)まで本寺に帰ることがなかった。永正期はそれから30年ほど経た清凉寺の復興期といえよう。永正6年(1509)2月10日『公藤公記』によれば清凉寺は六波羅密寺で本尊釈迦如来の開帳を行っている(注9)。これは釈迦堂の造営のためで、『拾芥記』によれば上葺とあるので屋根の葺き替えの勧進であった。縁起6巻のテキストに、本尊を兵火から救い京でも護持した念仏聖廣見のエピソードの中に「當寺の諸堂の上葺其外興隆に多年功を積し人なり」がこれに関連する記述であろう。縁起の制作の契機を『遠碧軒記』の「古法眼が7年かゝりて」という記述から、永正6年のこの時期とする並木誠士氏の説は是認される。しかも翌7年(1510)には清凉寺と元信を結びつける記録が現れる。『実隆公記』の12月4日に「嵯峨釈迦像青法印令新図之、禁裏可拝見之由被仰、殊勝々々」。並木氏はこれを実隆が青法印という人物に本尊を描かせたと解釈され、青法印については不明であり狩野正信の名が祐盛で、盛の音通で青が用いられたと推測したくなるができない、とされる。しかし、これは青法印が本尊の像を新たに描かせたのである。また青法印が誰かも特定できる。傍証は『古画備考』である。「盛方院家系別記年表、冶部卿三位浄運法印傳中、明應元年壬子入唐傳仲景之方術歸朝、此時携画具作霊山會圖事,達朝廷辱歴天覧、又令元信寫釋迦尊佛後寄付清凉寺」つまり浄運法印は、明應元年に明にわたり張仲景の傷寒論の医術を学んで帰朝し、この時画具を持ち帰り霊山會−法華経の会座の図を作って天覧され、また元信に釈迦佛を写させて清凉寺に寄付したとある。今『盛方院家系別記年表』の原本の所在は不明だが、盛方院とは坂士仏の子浄快を祖とする医家で冶部卿浄運法印とは坂浄運である。盛方院は青法印と記されたのである。このことは坂家に長く伝えられ『寛政重修諸家譜』にも「浄運明朝より携来るところの丹青の具をもって、狩野元信に釈迦の像を画かしめ、嵯峨の清凉寺に納む」とある。同時代の実隆公記の記述とあわせれば、天覧されたのは釈迦像であり、それは明の絵の具を使って浄運が元信に描かせたものであったと解釈すべきであろう。清凉寺の釈迦画像についての寺伝元信筆の根拠はここにある。非常に異国的な表現の画像で、時代的にも室町後期が制作期と考えられる点から、この伝承は作品に基づいて考え直してみる価値がある。そしてより重要視されるのは、釈迦堂縁起の描かれていたこの時期に、坂浄運とい

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