―456―「古画備考」にある霊山會の画題は本尊釈迦如来の納入品である宋版の霊山浄土図とう入明経験のあるプロデューサーが清凉寺と関連して元信の身近にいたことである。も一致し、このような仏教版画や絵入り版本の見返し絵に基づいて制作された可能性もある。おそらく絵の具ばかりでなく「釈氏源流」のような明の版本も浄運の周囲にあったと想像されよう。清凉寺のある嵯峨は五山版の中心地で宋元版を和刻する臨川寺や天龍寺が近隣にあったことも考慮しなければならない。現在図様の典拠が不明である初転法輪などの場面も版本経の見返し絵などを参照した可能性もある。また同じ永正7年(1510)には明の正徳5年2月の日付をもつ鄭沢尺牘が書かれている。鄭沢は永正の遣明船の通詞であったとされるが(注10)、この時期元信周辺に明の雰囲気が濃厚であったことは確かである。5、釈迦堂縁起の構造さて仏伝としての釈迦堂縁起の図様が釈氏源流正統版に依拠することは、理解されたと思う。それは絵巻としてどのように構成されているのだろうか。この絵巻の構図の特徴を並木誠士氏は、斜め構図の多用、奥行き表現の導入が特質であり、絵巻物の伝統的な表現方法とは距離があり、室町水墨画において支配的であった「辺角的構図」をはじめとして、襖絵、掛け軸などの画面形式との関連が強く、そこに釈迦堂縁起の漢画的要素が指摘できるとされている(注11)。しかしこの絵巻の1、2巻が仏伝であることを考慮すると、必ずしもそうは言えない。氏が特徴とされる四門出遊に見られるすやり霞を利用して観者の視線を上下に振りながら、ストーリー進行をはかるという構図は、すやり霞を岩石に置き換えれば同じ仏伝の絵画化である絵因果経の特徴でもある。また物語の進行と場面転換が上下にジグザグ様に展開していくのは、華厳五十五所絵巻にも指摘しうる傾向である。これらの仏典絵巻の構図の源流は、北周の敦煌428窟サッタ太子本生図やスダナ太子の本生図などに求められる。その意味で中国的、漢画的といえなくもないが、この場合元信は、襖絵や掛け軸の構図を絵巻に適用したのではなく、手短に仏伝の伝統的構図法にたよったにすぎないと筆者は考える。建築が描かれる31場面のうち、建物のどの面も画面の上下に対して斜線を構成する典型的な斜線構図がとられる例は10場面にすぎず、斜め構図の多用がこの絵巻の構図の特徴とするには無理がある。むしろここで指摘すべきなのは、版本に依拠することによって、1、2巻の絵画的叙述が3巻以降に比べ分節化する傾向にある点と全巻にわたって吹き抜け屋台が用いられない点であろう。後者は殆どを異国を舞台とするた
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