―457―めだが、建築の描かれる場面では例外なく画面の上部、建物の屋根の部分にすやり霞をひき、軒先に人物を配する手法は、玄奘三蔵絵に見られるものである。この手法は同じ異国を舞台とする東征伝絵巻にも用いられるが、胡粉で括られたすやり霞がより玄奘三蔵絵に近い。インド、中央アジア、中国を舞台とする点で釈迦堂縁起成立時に玄奘三蔵絵が参考にされた可能性は高いといえよう。既に描法において釈迦堂縁起は隆兼系の石山寺縁起5巻と近似すると、村重寧氏が述べられているが、空間構成においても玄奘三蔵絵など隆兼系の絵巻を学習していることをここに指摘したい。1巻7段初啓出家の例外を除き、終始やや低く安定した視点による俯瞰も隆兼系を学んだ成果であろう。元信は漢画の図様を描くにあたって、大和絵の古典的な空間構成と描法をもってした。それは同時代の土佐光信や光茂の大和絵が、いかにも室町的な枯れさびたものであるのに対し、復古的ともいえる姿勢を貫いたものといえる。6、釈迦堂縁起の位置最後に釈迦堂縁起の位置を確認してこの稿を終えたい。土谷真紀氏は釈迦堂縁起を狩野派の図様収集の成果とされ、同時期の作例として大仙院の之信の四季耕作図が伝梁楷の「耕織図巻」にならうこと、などをあげられた(注12)。その指摘は正しい。しかしそれだけではない。釈迦堂縁起は仏伝を含むことによって仏典絵巻としても分類される。そして仏典絵巻には、版画から本画が作られる作例が散見されるのである。例えばメトロポリタン美術館蔵の観音経絵巻が南宋の嘉定元年(1208)に刊行された版本によって描かれたように(注13)。この作品もまた漢画の骨格をもちながら、大和絵であることを疑う余地のない作例である。そしてさらにいえば釈迦堂清凉寺には版画から本画が作られた前例があった。融通念仏縁起である。応永21年(1414)に制作された清凉寺本融通念仏縁起が融通念仏縁起明徳版本(1391)に基づくものであることは、広く知られている。およそ百年後に釈迦堂縁起の制作が計画された時、この前例が意識されないはずがない。釈迦堂縁起は、始祖正信の東求堂の障壁画制作以来、狩野派が担ってきた中国絵画を拡大再生産する画派としての立場と仏典絵巻としての伝統、そして清凉寺における版画と本画の関係、この三者の交錯する位置にたつ絵巻といえよう。釈迦堂縁起の仏伝図部分は、釈氏源流の図様に依拠して成立した。しかし元信は絵巻としてそれを描くにあたって、隆兼系の古典的な大和絵の構図と描法を学んだ。後世『本朝画史』が「狩野家は是漢にして倭を兼ねるものなり」と述べた狩野派の道は、
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