―38―も壁ごと剥落していて手の形は認められないが、空如模写では神線のリボンをとるように描かれている。左手の先にもリボンが描かれており、空如は左右の手で神線の両端を持つという、月光菩薩と同じポーズを想定していたのであろう。日光菩薩の右手の形状に関しては、昭和43年(1968)に完成した再現壁画の模写事業にあたり、第10号壁を担当した前田青邨が後に、空如模写を参考に画面を補ったことを記している。大正5年(1916)に撮影した時点で、既にこの部分の壁面が剥がれ落ちていることからも、空如の模写は大正5年以前に遡るものと考える。また両脇侍の斜め後ろに立つ二菩薩のうち、向かって左の菩薩は両手指を絡ませるように捻ずる形が描かれている。これも下図の中に、より明確に手の形を描いているものが見られる〔図8〕。6.空如模写の真価以上空如模写の特徴を精査してきたが、金堂壁画をとりまく歴史的流れの中でその真価はどこにあるのだろうか。まず、制作方法に関しては香雲模写を基にしているとはいえ、剥落による不明な部分を詳細に観察して補正・加筆を施し、出来るだけ原画に忠実な復元を図った点で、より進歩しているといえる。また、法隆寺金堂壁画研究の歴史において、空如が模写を続けていた大正年間から昭和初期は、壁画そのものの図様や主題の研究が主流となる段階に入っており、図様の観察が緻密さを増していた。そこから主題について瀧精一、福井利吉郎、内藤藤一郎らが諸説を発表したが、結論にはいたっていない。そのような時代にあって、前項で見たように空如模写には図像解明の糸口となる数々の描写がみられるのは、非常に意義深いと考える。最後に、大正8年(1919)頃の壁画保存審議の最盛期において、主な学者や美術家たちの共通した見解は、まず模写の作成を急ぐべきというものだった。例えば帝室技芸員であった香取秀真は、模写は2、3組作り博物館などに保管して篤志者に見せることが第一である、と述べている。それはまさしく空如が生涯をかけて行った実践そのものであり、真意でもあった。昭和24年(1949)オリジナルは焼損してしまうものの、結果的に法隆寺金堂壁画を再現することが出来たのは、優れた芸術的感性と技術を持った画家たちの模写等、過去の蓄積によるところが非常に大きい。法隆寺壁画は、模写によって広く認知され、また模写によって損失の危機から救われたといっても過言ではない。その中でも、空如の成果は公的模写以前の空白期を埋める重要な資料である。だからこそ、より正確な歴史的位置づけには、模写第1作目の制作時期を厳密にすることが必要だろう。今後はそこを重点的に調査を継続したいと考える。
元のページ ../index.html#48