-南朝方諸勢力周辺における詫磨派絵仏師の動向に関する研究―43―研 究 者:学習院大学大学院 人文科学研究科 博士後期課程 藤 元 裕 二1.はじめに平安時代後期から室町時代初頭にかけての活動の形跡が確認されている詫磨(他に宅間など多くの用例あり)派の動向については様々に議論されている。特に13世紀以前の様相を平田寛氏(注1)、宮島新一氏(注2)らが体系的にまとめられており、神護寺、高山寺、東寺を中心に活発な絵画制作を行った姿が浮き彫りとなった。しかし、14世紀以降の動向は、栄賀(エイガ、ヨウガ)など複数の絵仏師の存在が知られるものの、前世紀に比して文献資料が不足しており、詳らかではない。詫磨派の活躍は室町時代に入ると殆ど確認できなくなる。僅かに『大乗院寺社雑事記』文明9年(1477)12月30日条付記に羅列された当時の絵所の中に「四条堀川」とあることから、15世紀後半までは詫磨派工房が機能していたと推定できる程度である。即ち、観応元年(1350)銘の岐阜県・立政寺所蔵「当麻曼荼羅図」の作者が「宅間登賀之子孫」である「画師四条堀川下野法印」(軸木銘)と伝わることから、四条堀川絵所が14から15世紀の詫磨派の活動拠点の一つであった可能性を指摘できるに過ぎない。しかしこの地は、応仁・文明の乱を受けて瓦解と化しており、詫磨派の活動の形跡が辿れなくなるのも乱と無関係ではあるまい。以上のように伝統的な絵仏師、詫磨派が終焉を迎える一方、初期土佐派を中心とした多くの流派が同時期に活動を開始する。筆者は絵師交替史観を主張する意図は無いが、この時代は絵師にとっても転換期であった。本稿では14世紀の詫磨派の動向を、南朝勢力との関わりより論じる。北朝側に比して小規模ではあるものの、南朝側においても朝儀・仏事が盛んに執り行われており(注3)、それに附随した絵画の需要に応えた流派の一つとして、詫磨派を位置付ける。そして詫磨派の活動が南朝の衰退とともに制約されていった可能性を併せて指摘し、旧来の絵師が解体し、新たな絵師が胎動する時代の仏画制作の様相の一端を明瞭にすることを目的とする。詫磨派は中央と地方で活動した組織に便宜的に分けられ、本稿ではその前者を扱う(注4)。以下、南朝勢力に関わる詫磨派の活動を報告する。2.『常楽記』の検討南朝勢力の中でも、報恩院・金剛王院を中心とした醍醐寺門跡寺院が、詫磨派の動勢を考える上で重要となる。両者の接触を物語る資料が『常楽記』である。本資料を
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