鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―44―かつて分析したことがある(注5)が、新知見の報告を兼ね簡単に述べる。『常楽記』は、醍醐寺門跡の一つ、報恩院の僧侶が編纂した過去帳である。その内容は編纂者の立場に即しており、醍醐寺、特に報恩院関係者が重点的に収められている。詫磨派と思しき人物として、嘉暦2年(1327)歿の「絵師宅間入道了尊」、元徳2年(1330)歿の「宅間式部大夫」、同4年(1332)歿の「宅間遠江法印朝勝」が収録されている。彼ら3名の確実な作品は発見されておらず、僅かに了尊筆とされる「地蔵尊」が、大正4年(1915)5月20日に大阪美術倶楽部にて開催された「某家」の売立に見える他、伝承作品が幾つか伝わるに過ぎない。詫磨派以外の絵師では、唯一応永31年(1424)歿の六角寂済が収められており、それは彼が醍醐寺D魔堂壁画の新補に携わった(『醍醐寺新要録』巻第13)故であろう。つまり、醍醐寺関係の制作に従事していたことが『常楽記』への収録要件と考えられる。寂済の収録理由を勘案するならば、了尊らも報恩院を中心に醍醐寺における制作機会を得たと推定できる。14世紀前半に詫磨派3名の死歿が集中的に記録されることは、翻って当該期の醍醐寺周辺における積極的な制作活動が示唆される。当時の報恩院は他の門跡を制する勢力を有しており、南朝に参じた道祐(生歿年不詳)、文観(1278〜1357)(注6)ら報恩院院主との関係も、併せて考えられる。建武2年(1335)の東寺長者人事は異例であった。通例複数の権門寺院から選出される長者が、醍醐寺親後醍醐(1288〜1339)僧で固められた(『東寺長者補任』)。そして彼らに代表される報恩院高僧が、両朝分裂後の南朝の宗教面を性格付けていく。無論、詫磨派の活動を醍醐寺のみに限定はできない。14世紀前半当時、大元帥法の主導権を巡り醍醐寺と敵対していた安祥寺との関係のもと、多倶摩賢信が活動していたことが指摘されている(注7)。以上のように詫磨派の活動は多岐にわたるが、南北朝時代の騒乱を機に、14世紀中頃までは安定した勢力を保持した、報恩院を中心とする南朝方門跡(他に金剛王院、理性院など)との結び付きを強めていったのであろう。やがてそれは、中央詫磨派の終焉とも密接に関わることとなる。3.長賀以来の伝統14世紀における醍醐寺と詫磨派の関係は、13世紀の詫磨長賀以来の伝統に支えられている。醍醐寺と長賀の関係を示す明確な文献は確認できない。師弟関係においては、勝賀の弟子である良賀の系譜に連なる。建暦3年(1213)に法勝寺九重塔供養にて良賀は賞を得る(『明月記』)が、長賀は建長5年(1253)に同寺阿弥陀堂供養にて勧賞され

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