―45―(『経俊卿記』)、かつ良賀が建保5年(1217)に購入した洛中七条の土地を長賀は寛喜元年(1229)に売却する(『鎌倉遺文』第2299、第3837号文書)。同一寺院での勧賞及び土地の相承より、良賀と長賀の師弟関係が理解できる。一方、土地売却が仮に工房の移転を示すならば、寛喜元年(1229)前後が醍醐寺と詫磨派の接触開始の時期と考え得る。詫磨俊賀が高山寺での制作に積極的に携わるのも、同寺所縁の土地を賜った(『神護寺文書』)以後であり、土地売買と絵師の活動の連動については積極的に論じられるべきであろう。文献資料に比して、長賀の作品は醍醐寺との関係を明瞭に物語る。その代表が同寺所蔵「不動明王図像」である。縦173.7×横99.0cmの紙本墨画で、長賀法眼筆の銘文を伴う。醍醐寺には鎌倉時代の不動明王図像が多く伝来しており、その枠内で本図も捉えられる。フリア美術館所蔵の二童子も長賀の醍醐寺での図絵を考える上で不可欠である。中尊不動明王の画幅を欠き、「制F迦童子図」〔図1〕、「矜羯羅童子図」〔図2〕のみ伝来する。前者は縦125.8×横42.4cm、後者は縦126.6×横41.2cm、それぞれ絹本著色、朱文方印「長賀」が一顆捺される。本図の伝来過程も不明であるものの、以下の2点より醍醐寺との関係が窺える。第一に、中野玄三氏(注8)の指摘の通り、図様がフリア美術館本と共通するのみならず、中尊を欠く点でも通じる二童子〔図3〕が「探幽縮図」に収録されており、「たいこの坊主ノゑ也」と注記されていることである。第二に、鎌倉時代の醍醐寺仏画で盛行した、金の使用を抑えた彩色がフリア美術館本にも採用されている点である。以上より、フリア美術館本も醍醐寺関係の遺品として考え得る。さらに、従来禅宗との関係より論じられてきた来朝禅僧兀庵普寧(1197〜1276)の頂相、正伝寺所蔵「兀庵普寧像」の図絵も、醍醐寺と北条氏との関係から理解できる。正伝寺本は北条時頼(1227〜63)の意を受けて制作された(『東巌安禅師行実』)が、北条氏は祈祷を通じ醍醐寺、特に報恩院と密に連絡している(注9)。時頼が尊崇する兀庵普寧の像を描かせるに際し、当時法印位にあった有力な絵仏師長賀に醍醐寺を経由して命じたと理解する方が、真言密教系大寺院での活動を専らとしていた13世紀の詫磨派の性格を鑑みると、より自然である。以上、14世紀の詫磨派が醍醐寺と接する前提として、13世紀の長賀以来の伝統が存することを指摘した上で、具体的な作品の分析を行いたい。
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