未(1355)正月十七日図絵開眼供養之、大絵師法眼厳雅、―46―(南朝年号では延元、興国)が使用されている点も、南朝関係の図絵であることを否4.醍醐寺関係の詫磨派の絵画について醍醐寺南朝勢力の存在を背景として制作されたと思しき詫磨派作品が複数見出せる。1つは、岐阜県・正法寺所蔵「仏涅槃図」である。本図の紹介は既に行っており(注10)、詳細な言及は避けるが、画風より中央の詫磨派の筆と見做せること、銘文より暦応3年(1340)に南朝の重臣北畠氏所縁の伊勢瀧野河観音寺に施入されたこと、施入に際し醍醐寺僧の関与が指摘できること、北畠氏と醍醐寺を結び付ける人物として、醍醐寺南朝方門跡の金剛王院院主で、北畠親房(1293〜1354)の弟、実助(1294〜1353)があげられることが指摘できる。また施入日暦応3年(1340)5月15日は、北畠顕家(1318〜38)が和泉で戦死する同元年(1338)5月22日のほぼ2年後であることから、顕家三回忌追善が制作背景として指摘し得る。北朝支配下の京都での活動を余儀なくされた実助は、南朝年号の使用を敢えて避けており、本図に北朝年号暦応定する要素にはならない。また金泥による款記が、裏打ち紙が目視できるほどに削り取られているが、そこからは後述の個人蔵「大威徳転法輪曼荼羅」の銘文抹消と通じる意識を感じる。また本稿で取り上げるもう1点が、個人蔵「大威徳転法輪曼荼羅」〔図4〕である。本図については林温氏(注11)が銘文の紹介及び詳細な図像学的知見を示されており、本稿では流派の観点から述べる。個人蔵「大威徳転法輪曼荼羅」は、縦155.1×横123.1cmの絹本著色画である。落款は認められないが、制作当初に遡る銘文が残されている。正平十年乙大威徳転法輪荼羅御開眼これにより、制作年代が南朝年号による正平10年(1355)であり、厳雅が起用されたことがわかる。厳雅とは近世の画伝類にも紹介の無い、詳細不明の絵師である。また、開眼供養を行った阿闍梨を林温氏は文観とされる。文観は醍醐寺報恩院院主、醍醐寺座主に就任した、後醍醐、後村上天皇(1328〜68)らの信任を得た南朝の護持僧である。さらに氏は北朝調伏を目的とした修法の本尊であった可能性を指摘される一方、厳雅の名に関して詫磨派が用いる「賀」字との音通以上の共通性は認められないという立場を取られているが、再考したい。(抹消の痕跡)(抹消の痕跡)前大、
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