―47―個人本を検討する上で重要な作品は、同じく密教画の静嘉堂文庫美術館所蔵・詫磨栄賀筆「不動明王二童子像」である。両諸尊の面相の輪郭と皺を同質の墨線で表わす点のみならず、神将と童子の面相〔図5,6〕を比べると、同時代の他作品に比して、目鼻などの造作が顔の中央に集中するように配置される点、大きく見開いた目に大きい眼球が描かれる点、上下に広く横幅が狭い額が備わる点など、凡そのプロポーションは共通する。また、大威徳の裳には雲気を上げる宝珠形の特徴的な文様〔図7〕が施されている。静嘉堂本の童子の裳〔図8〕にも同種のものが描かれており、厳雅と栄賀が同一流派に属することを思わせる。なお、静嘉堂本の文様の宝珠の頂部の玉が、底部より分離しているものもあるなど写し崩れも進んでいることから、個人本が静嘉堂本に先行する作品である可能性も指摘できる。厳雅という名に戻りたい。詫磨派の特徴の一つに、長「賀」、栄「賀」など「賀」字を名乗る点があげられる。従って、厳「雅」と音通するが、表記の上で異なることも事実である。しかし、個人本銘文に名を記した人物は厳雅ではなく、款記の栄「賀」と銘文の厳「雅」では書き手の性質を異にする。14世紀に著述された書物中の詫磨派の表記を確認すると、例えば青蓮院門跡、尊円(1298〜1356)が編纂した『門葉記』では、藤末鎌初に活躍した「ショウガ」を「勝雅」と雅字を以て伝え、東寺の杲宝(1306〜62)が編纂した『東宝記』では「勝賀」と記す。以上より、当時は「賀」、「雅」字が併用されていたのである。「賀」字が主流であることは否めないが、厳雅の名も、詫磨派の表記として齟齬をきたさない。以上より、個人本は、報恩院院主、醍醐寺座主、東寺長者を歴任した南朝宗教界の権威、文観と詫磨派の接点を示す、貴重な一例と位置付ける。以上の2作品の分析により、長賀に端を発し了尊らに続く醍醐寺の特定門跡との関係は、南北両朝分裂後も継承されていたことを確認した。一方、両朝分裂から明徳3年(1392)の合一に至るまで、基本的には北朝優位の情勢下で時間が進む。醍醐寺門跡においても、足利尊氏(1305〜58)と結んだ賢俊(1299〜1357)が管領する三宝院の勢力が拡大していく(注12)。文和2年(1353)の一連の文書(『醍醐寺新要録』巻第11)は、その状況を端的に示している。それによると、賢俊が南朝方の文観(報恩院)、実助(金剛王院)、顕円(理性院)らの権益の三宝院への委譲を求め、僅か10日後にそれが認められ綸旨が発給されているのである。尤も、この文書発給を以て権益委譲が行われたのではなく、既に実質的に三宝院が他門跡を制しており、それを追認したと判断するのが妥当である。この状況より、詫磨派の活動も厳しく制約されたことが想像に難くない。醍醐寺南朝方門跡と詫磨派の消長を直結させることは短絡的で
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