鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―48―あるが、15世紀に入り終焉を迎える同派の動向を考える上で、14世紀の動乱の影響は軽視できないのである。5.伊勢における絵画制作南朝と伊勢の関係は、建武3年(1336)に後醍醐が吉野に逃れた前後に遡る。吉野と東国を結ぶ戦略上の要地として南朝に重視され、伊勢神宮に仕える度会氏を頼りに北畠氏の伊勢経営が開始された。現在の津市周辺を流れる雲出川を挟み両朝が対峙し、北朝の前線基地としての性格の強い安国寺(注13)が、伊勢国では現四日市市に置かれたこと(『扶桑五山記』)から、大凡伊勢南部が北畠氏の影響下にあったと判明する。伊勢における詫磨派の活動の形跡を幾つか確認できる。一つは、四日市市の臨済宗寺院、大樹寺に伝わる栄賀筆「仏涅槃図」である。本図には延宝3年(1675)の大樹寺僧による修理銘が残されているが、それ以前の来歴は不明である。また一つは、前述した正法寺本である。暦応3年(1340)に伊勢瀧野河観音寺に施入されたことが判明し、醍醐寺僧や金剛王院実助の関与が認められる作である。以上の他、新たに詫磨派の筆と位置付けられる作品も見出せた。それは、桑名市十念寺所蔵「仏涅槃図」〔図9〕である。十念寺の創建は古くに遡るが、嘉禄年中(1225〜26)に浄土宗第三祖良忠(1199〜1287)の弟子、誉阿弥陀仏が浄土宗に改めた。桑名藩の庇護も受けて繁栄したが、大戦の空襲により全焼、殆どの什物を焼失したが、十念寺本を含む数点の文化財が辛くも難を逃れている。十念寺本は縦145.4×横162.7cmの絹本著色画である。落款は確認できない。紙背銘より、天正18年(1590)と寛延2年(1749)に十念寺常住物として修復されたことが判明する。構図は鎌倉時代以来の涅槃図のそれが踏襲されており、特異な点は見出せない。釈迦や群衆の整った形態、緻密な彩色と細かな金泥文様、細い突起が多用された菩薩の装身具、部分的ながら巧みな水墨画技法の使用などから、14世紀中頃に中央の絵仏師に制作されたと思われる。正法寺本との比較を通し、本図の流派を検討する。例えば群衆の図様は原本の相違から共通しないものも多いが、いずれも悲しみの表情を、口を僅かに開き両端を下げて表わしている〔図10,11〕。また眉間と鼻梁の間のくぼみが強調されている点でも共通する。さらに、十念寺本、正法寺本ともに群衆の衣文が細かな金泥文様で彩られるが、円と唐草文を組み合わせた、あるいは変形させた文様が多くを占める点のみならず、二重円の四方に一重円を配置する特殊な文様〔図12,13〕が見出せる点も、制作年代の近接以上に、両本作者の距離が近いことを物語る。十念寺本が同寺に制作当

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