―49―初から伝来したか不明であるものの、ほぼ時期を一にする正法寺本が瀧野河観音寺に伝わったことを勘案すると、伊勢が14世紀詫磨派の重要な活動地域であったと考え得る。最後に、多気町丹生の天台真盛宗、智禅寺所蔵「阿弥陀来迎図」〔図14〕を取り上げる。智禅寺は古くから北畠氏の庇護を受けており、永禄11年(1568)の北畠房兼書状を中心とした北畠氏関係の文物が多く残されている。智禅寺本は、縦116.7×横58.2cmの紙本著色画である。落款は確認できない。江戸期と思しき補彩が厚く為されており、原容を窺うことは難しい。智禅寺本からは詫磨派筆と判断できる材料は見出せないが、興味深い伝承を伴う。同寺には『奉為上候御書附』という、享保10年(1725)に記された文書が残されている。本書は紀伊藩に提出された寺院要覧の一部であり、多数の什物に混じり「卓磨金泥来迎仏絵」と智禅寺本と思しき作を卓磨、即ち詫磨派の筆として収める。阿弥陀の作者として詫磨派の名は度々語られるが、伊勢北畠氏所縁の寺院における詫磨派の伝承は、往時の実情を幾許かでも反映しているようである。以上確認した伊勢における活動も、金剛王院実助に代表される北畠氏所縁の醍醐寺僧との接点を基礎としたのであろう。14世紀詫磨派における醍醐寺南朝方門跡との接触は、その活動を大きく規定する要素であった。一方、南朝の本拠地吉野や河内金剛寺近辺などでの詫磨派の活動の跡を見出せず、南朝に従い工房を移転させた様子もない。それ故、詫磨派を南朝方の絵仏師と判断することは早計である。しかし限定的に捉える必要があるものの、15世紀に入り詫磨派が終焉を迎えることを鑑みる時、醍醐寺南朝方門跡との関係は重視されるべきである。6.おわりに平安時代後期以来、長きに亘り仏画界を彩ってきた詫磨派の衰退の淵源は、南朝方諸勢力との関係を背景とした活動にある。14世紀の詫磨派に関する文献資料の制約は、13世紀以前の豊富さと比較すると不自然である。その所以も、南朝勢力との関わり、即ち資料数が北朝側より乏しい点に求められるのであろう。限られた情報から掬い取れる長賀以来の報恩院との接触は、「一部の」詫磨派の組織経営に影を落とした。発願者たる勢力が隆盛と没落を繰り返す時代の速度に、旧来の絵仏師では耐え得なかった、言い換えれば組織的弱点を有していたのであろう。同一軸線上での検討はできないが、初期土佐派など新たに登場する流派とは、組織経営が相違すると推定できる。北朝と結び隆盛を迎え、南朝と接触し没落したという図式的な理解は短絡的であり、
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