鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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■京都国立博物館編集『画像 不動明王』同朋舎出版、1981年伊藤清郎「中世醍醐寺と公家・武家―祈祷と政治―」『中世の政治と宗教』吉川弘文館、1994拙稿「正法寺所蔵〈仏涅槃図〉の制作とその周辺―北畠氏・醍醐寺・金剛王院実助・宅磨派―」林温「新出の大威徳転法輪曼荼羅」『国華』第1176号、国華社、1993年、12〜26頁藤井雅子「南北朝期における三宝院門跡の確立」『日本歴史』第654号、吉川弘文館、2002年、注平田寛『絵仏師の時代』中央公論美術出版、1994年 宮島新一『宮廷画壇史の研究』至文堂、1996年■森茂暁『南朝全史』講談社、2005年■14世紀の中央と関東の詫磨派に流派的一貫性は見出せず、両者の関係を示唆する文献資料も現段階では確認できないことから、「タクマ」を冠する別個の集団と捉えることが適切と考える。■拙稿「醍醐寺と宅間派―『常楽記』に記された宅間入道了尊」『人文科学論集』第16号、学習■文観に関する言及の殆どは、真言密教立川流の怪僧というイメージに基づいていた。近年その見直しが様々な角度から試みられている。本稿においては内田啓一氏の著作を大いに参考にさせていただいた。・内田啓一『文観房弘真と美術』法蔵館、2006年■佐々木守俊「大元帥明王図像の彫像化に関する調査研究―法琳寺別当職をめぐる安祥寺と理性松尾剛次『日本中世の禅と律』吉川弘文館、2003年―50―制作の受注システムと作品様式の双方から比較検討する態度が求められる。14世紀の詫磨派を考察する際、栄賀の分析は不可欠である。常磐山文庫所蔵「柿本人麻呂像」には五山禅僧の性海霊見(1315〜96)が着賛している。仮に同本が栄賀筆ならば五山周辺への接近を示している。かつ千葉・大慈恩寺所蔵「愛染明王像」が栄賀筆で、かつ当初より伝来しているとすると、北朝側の宗教政策、利生塔が設置された同寺への施入に関わる絵師の立場を、南朝側と固定的に判断するには躊躇せざるを得ない(但し、足利直義との関係は考慮が必要)。栄賀の在銘作品が多く現存すること自体が、他の中央詫磨派と一線を画しており、問題を複雑にする。再度中央詫磨派における分立の状況が推察できることを述べ、論を終えることとする。年19〜35頁院大学大学院人文科学研究科、2007年、35〜65頁院の動向」『鹿島美術研究』年報第18号別冊、鹿島美術財団、2001年、546〜557頁『哲学会誌』第30号、学習院大学哲学会、2006年、95〜123頁図版出典・図1・2『在外日本の至宝』第1巻 仏教絵画 1980年・図3 京都国立博物館編集『探幽縮図』1981年

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