/高麗李光弼筆瀟湘八景図(1185年)の図像と画風―64―研 究 者:京都大学大学院 文学研究科 博士後期課程 呉 永 三北宋後期、行旅や送別を主題とし唐詩を踏まえて展開する瀟湘八景図が広まったこの頃、両国の絵画交流(国交正常化は高麗文宗二十五年、北宋煕寧四年(1071年)に再開される)は政治や文化を牽いていた文人の交流を促し、東アジアを一つの文人文化圏として成立させた点、以来この地域の美術史に及ぼした影響は計り知れない。しかし、遺作や文献資料がほとんど残っていないため、この時期の高麗絵画に対する研究状況は極めて乏しい。これは高麗に継いだ朝鮮初期山水画は勿論、応永期の室町水墨画、金の絵画を理解するのにも大きな障害になっている。本稿ではこのような問題を打開するために一つの仮説を提示し高麗後期(1170〜1270)絵画史の研究における議論を喚起したい。1.高麗画局の画風高麗(918〜1392)には三館(修文殿・史館・集賢院)はあったが、主に墨跡を保管する秘閣がなく(注1)、寶文閣(注2)・P燕閣・天章閣を建て、そこに高麗や中国歴代の書画を収蔵した。1123年(宣和四年)、高麗に入り、翌年その見聞を纏めて書き上げた徐兢の『宣和奉使高麗図経』(巻六)の宮殿・延英殿閣条には、高麗の国王は徽宗の制に倣い宝文閣と清燕閣を建て宋皇帝の詔Y書畫を収蔵させており、そこで儒臣と經筵問答を行い、延見や宴会も主催したという(注3)。なお『高麗史』(巻十四)睿宗十二年六月の条(注4)によると、この二閣に加え天章閣を設け、徽宗が賜う親製詔書及び御筆書画を所蔵させたことがわかり、高麗絵画が徽宗画院と緊密な関係のもとで展開していたことが窺える。高麗の図画院に関しては詳しく知ることが出来ない。ただ、高麗は、開国初は唐制を、文宗頃からは宋の官制を参考にしたこと(注5)、粛宗と睿宗年間(1096〜1122年)北宋の新法を参照して行われた一連の改革(注6)を考え合わせると、睿宗年間(1105〜1122)に見られる「画局」(注7)は、新法に戻った哲宗の紹聖二年、翰林図画院から改称された翰林図画局(注8)に倣って設けられたものと考えられる。高麗明宗(1185)の命で瀟湘八景図を描いたという画院画家李光弼の父李寧は李俊異に師事した(注9)。李俊異は1123年徐兢が宣和奉使として高麗に入ったとき、保義_として「私覿送遺」(注10)、即ち宋使者の贈り物を担当した。同じ系列の翰林御書院を参照する(注11)と、保義_李俊異は図画局の芸学を、『宣和奉使麗圖經』
元のページ ../index.html#74