鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―65―の人物条で李俊異の前後に並べられた成忠郎(従八品)李俊jと金世安は待詔を、承節郎(正九品)許宜・何景・陳彦卿は祗候を務めたことになる。以後大使臣最高職である内殿崇班を賜れた李俊異は恐らく画局の待詔を兼職したと考えられる。当然相当の鑑識の持ち主でもあり、十二世紀前半の中国絵画の動向にも詳しかったはずである。そうである彼が李寧の絵と北宋絵画を見間違ったことと、徽宗による李寧画への賞賛(注12)は李寧の絵が徽宗画院の趣向と非常に近い画風で描かれていた可能性を提示する。一方、画局の画風については、郭煕が相国寺の西壁に李元濟が描いた仏画の背景に溪谷平遠図を描き、これが高麗の興王寺に写されたこと(1067年)や、神宗から高麗使者(1074年頃)に郭煕の秋景烟嵐二点が下賜されたこと、それから徽宗により大量の書画が高麗へ流入されたこと(注13)から、高麗の画局においても北宋画院の郭煕様式が流行っていた可能性が高い。更にほぼ同時代高麗に伝わっていた蘇軾や黄山谷の詩を通しても、郭煕の秋山平遠図は流謫と隠逸、洞庭と落雁、客思と思郷という詩情を表す文人画として賞賛され、北宋だけではなく当時高麗の文人士大夫の間でも好まれたことが推測される(注14)。したがって、高麗文臣や画員による瀟湘八景詩と図の制作にあたっても、郭煕の秋景煙嵐図や秋山平遠図が心像的イメージと視覚的筆様として一番可能性が高いモデルであったと考えられる。2.著色山水と瀟湘八景熙寧十年(1076)、高麗の使臣崔思訓一行が私覿物として用いた扇は北宋でも大変人気があったようで、d青紙の上、本国の人物・鞍馬・花鳥などを金銀と著色で描いたもので、もともとは日本から出たという(注15)。この記事によって、十一世紀高麗と日本では金碧の人物画や花鳥画がかなり精巧なレベルで描かれたことが知られる。勿論その図様は唐様を継承したもの(注16)と考えられる。高麗の著色山水に関わる北宋の記事はすでに十世紀から見られる。たとえば、宋の開国功臣であり所蔵家としても著名な錢忠懿の家には高麗の著色山水図四巻があり、図像こそは分からないものの、恐らく青緑の四季山水図と思われる。他に臨潼李家の八老図や嘉祐の名収蔵家楊襃家の行道天王図など(注17)主に道教関係の著色人物画が多いのも十世紀から行われた高麗と北宋との絵画交流における一つの特徴であろう。政和年間高麗の使節で宋に行った金富軾一行は大観二年修理された宣和殿で徽宗により太平睿覽圖二冊と十五巻の絵画を見せられ(注18)、その中から秋成欣樂圖を持ち帰った(注19)。太平睿覽圖はいわば宣和睿覽集というもので、四方から献上され

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