鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―66―た鳥獸草木十五種類を画員に描かせ、一板二頁の一冊で纏めてから、徽宗の序文と詩を各図の右側に附した(注20)著色吉祥図(注21)である。彼らに見せられた十五巻の画題を一瞥して気付くのはやはりその主題で、すべて奇物吉祥と神仙境を唱えるものである。特に神仙金闕圖・蓬Y瑞靄圖・奇峰散綺圖・玉P和陽宮慶雲圖・j莊縱鶴圖・白玉樓圖は徽宗自身の御筆として道教に深く係わるもので、伝統的な著色山水に瑞雲が付き纏う図像と思われる(注22)。現在徽宗の山水図には谿山秋色図(台北故宮)や晴麓横雲図(大阪市立美術館)が知られるが、確かに北宋末の面影を残すものの、ともに元代李郭派の模本としてみるべきであろう(鈴木敬、『中国絵画史』)。しかし、その真偽はいずれにせよ郭熙山水を解体し、その結果生じた構築性の弱化や乱れを補うために、面化された山体の間に煙雲を生かしているのは注目に値する。十二世紀前期、徽宗画院やその周辺での煙雲の表現は、郭煕や韓拙の遠法(注23)を基に、華北墨画において衰退しつつある構築性に代わって景物間の位置や距離関係を助ける遠法として扱われており、空間を閉じて(注24)墨面や色面で心像的奥行を表す南宋と元代の雲山図や瀟湘八景図(米友仁・牧谿・高克恭)に比べ、未だ北宋的であろう。このような傾向が読み取れる作例として王iの煙江畳嶂図卷(1085年以後、上海博物館)、胡舜臣の送ã玄明使秦図巻(宣和四年、大阪市立美術館)、金人聘金図巻(宣和五年頃、プリンストン大学博物館)、王希孟千里江山図(政和三年、北京故宮)、伝趙千里の江山秋色図巻(北京故宮)などが挙げられ、華北墨画や著色山水図における煙雲表現の採用が十二世紀前期北中国で幅広く行われていたことを示す。従来瀟湘八景図は江南の湿潤な大気と穏やかな山水を対象にしながらも、様式上は華北の寒林煙雲の平遠山水から描き始められたと思われてきた。ところが、瀟湘八景図が成立に至った北宋末は五代の山水様式を飛躍的に発展させる一方で、唐から宗室や宮廷の画家によって描き継がれていた著色山水も盛んであって、この著色山水でも瀟湘八景図が描かれた可能性がある。というのも、色彩が持つ写実性と、理想郷を現わす装飾性といった両面から、著色山水が実景の名所でありながらも理想郷として広がった瀟湘八景に相応しいからである。実際、宋迪の甥任誼の妾艷艷が描いたという著色の瀟湘八景一册(注25)、そして宋迪の甥宋子房が李思訓を倣い著色煙雲山水を描いたという記録(注26)、荊浩や王晋卿の着色楚山図(注27)、それから南宋瀟湘八景図の展開において重要な位置を占める李唐筆江山小景図巻(台北故宮)や伝夏珪筆山水図(個人蔵)も、著色の八景図と関連して興味深い。また、瀟湘夜雨図を描いた

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