鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―67―王可訓の山水は、当時高麗でも有名であって、その中でも明宗年間大収蔵家李湛之の春景山水図は煙雲夕照の中、湖に浮かぶ青山と縹緲たる水辺風景を描いたもので、瀟湘の行旅を主題に著色で描いた晩景図であったと思われる(注28)。3.李光弼筆の瀟湘八景図明宗は1170年、鄭仲夫など不当な扱いに不満を抱えた武臣のクーテター(庚寅の乱)によって、廃位された毅宗の後を継いで即位させられ、再び崔忠献によって廃位されるまで、軟弱な性格と不幸な政治的環境で実権を握らず、ひたすら書画に耽る二十七年を送る。一方、対外的には当時文明の中心であった宋はすでに衰退し、金に継いで登場するモンゴルの威脅はますます高麗の文臣を追い詰める(注29)。このような情勢の中、当時文人は世の無道と非義を語る勇気も実権も持たず、ひたすら詩を以って心の鬱憤を払う(注30)。このような文臣たちの状況は李仁老の「和帰去来辞」や陳華の「桃源歌」(注31)によってもわかるように、現実政治から離れ隠逸を実行した陶淵明の思想を積極的に受容させ、桃源郷を基に瀟湘八景図を理解したと考えられる。戦争(杜甫)・左遷(蘇軾)・赴任(宋迪)によって江南の僻地に流された唐や北宋の文人は、出仕(忠)に対する一種の求心力から切り離されることなく、思郷の感情を行旅詩で詠い、そこに関門(山市晴嵐)や落雁(平沙落雁)、そして帰帆(遠浦帰帆)のように回帰のシンボルを描き込めた。北宋後期に至って、頂点に達した寒林平遠山水とこの行旅文学の結合が瀟湘八景図を成立させたことはいうまでもない。ところが、早くも百年後、武臣に政権を奪われた高麗明宗や文人において、瀟湘八景図は憧れの名所として、また乱世から身を潜める隠居地として受け容れられたようで、ここでは出仕の求心力が魏晋時代に芽生えた隠逸の遠心力に取って代わられ、以後元や、朝鮮と室町での隠居図に繋がる先例となっている。勿論、八景図に対する需要者たちのこのような態度変化は図像の解釈や再生産にも大きく影響を及ぼしたはずだが、図像の変化とはある程度時間差があったようである。というのも、1185年李光弼筆瀟湘八景図は、たとえすでにその主題が行旅から隠逸へ変わりつつあっても、南宋から元代にかけて理想境へ象徴化されていく図像〔図1〕(注32)ではなく、行旅図的要素を守っている北宋のオリジナルに近い図像〔図2〕(注33)が、十二世紀華北の著色雲煙山水に近似する画風で描かれたものと考えられるからである。まず、図像においては李光弼筆八景図が、行旅文学に深く係わる北宋の宋迪という名を挙げて描かれたこと、李光弼の父李寧の徽宗画院との関係、朝鮮初

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