鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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注高麗の宝文閣や秘閣に関しては周藤吉之の『高麗朝官僚制度の研究』(法政大学出版局、1980 李奎報、『東国李相國集』巻三三、高宗十四・五年(1227・8)頃の「崔正Y讓寶文閣大學士不允9書」、「云云署閣曰、寶文蓋宋所制、而我朝亦置之、選當代名儒、以充學士、其以宰相處之、則加大以別之也」。■徐兢、『宣和奉使麗圖經』卷六、宮殿二、「寳文清燕二閣、以奉聖宋皇帝御製詔Y書畫」;「凡立政造事、大小云為、罔不資禀、崇寧大觀以來、施設注措之方、其於文閣經筵、求訪儒雅、遵宣和之制也、深堂密席、延見輔臣、法太清之宴也」。■「命置天章閣于禁中、藏宋帝所賜、親製詔書及御筆書Z」。■徐兢、『宣和奉使麗圖經』(宣和六年成書)、卷八、人物条、「臣聞東南諸國、麗人材最盛…■貨幣改革としては「朕承先王之業、將欲興民間大利、其立鑄錢官、使百姓通用」、『高麗史』卷七十九、「食貨志二・貨幣」、粛宗二年(1097)十二月の教勅を。国学の改革としては「肅宗七年閏六月、宰相邵臺輔等奏、國學養士、糜費不貲、實爲民弊、且中朝之法、難以行於我國、請罷之、不報」、『高麗史』卷七十四、「選擧志二・學9」を。賓貢設置としては「(元符二年二月)舘伴麗人使中書舍人郭知章言、麗人使言、國王欲遣士賓貢、此乃遠人悦慕教化、伏望採擇、詔令説諭許賓貢」、『續資治通鑑長編』巻五百六、哲宗条を。北宋への留学は「睿宗十二年五月丁巳、李資諒還自宋、進士權適趙a金端等、偕資諒還。帝初親策試適等於集英殿、賜適等四人上舍及第、特授權華貫、及還、帝賜禦製親箚詔」、『高麗史』卷十四、「睿宗世家」を参照。■李仁老(1152〜1220)、『破閑集』巻中、「京城東天壽寺」条、「昔睿王時、画局李寧尤工山水」。■承、『事物紀原』卷七、圖畫局、「宋朝会要曰、雍熈元年置翰林圖畫院、在内中池東門裏、咸『高麗史』、「列伝」、李寧条、「李寧、全州人、少以画知名、仁宗(1122〜1145年)朝、随樞密使李資徳入宋(宣和六年、1124)、徽宗命翰林待詔王可訓、陳徳之、田宗仁、趙守宗等、従寧、学画、旦勅寧、画本国礼成江図、既進、徽宗嗟賞曰、比来、高麗画工随使至者多矣、唯寧為妙手、賜酒食錦綺綾、寧少師内殿崇班李俊異、俊異妬後進有能画者少推許、仁宗召俊異、示寧所―68―期八景図と金の行旅図にみえる図像などから、唐以来行旅文学の詩情が描き込められた大観的寒林平遠の関山行旅図に近いものがあると考えられる(注34)。また、画風においてはこの八景図に附された李仁老や陳sの宋迪八景図詩(注35)の詩句から。そして、徽宗画院や皇室画家の著色山水の流入、実景図の流行、高麗末期から朝鮮初期における瀟湘八景の題画詩(注36)、更には実景のイメージが共有出来ない異国での名所図としての受容、それから十一世紀後期から十二世紀前半まで限定される北中国との絵画交流とその政治的側面、画員によって国王に上進されたという制作情況などを考え合わせると、高麗画局において著色(特に青緑)八景図の存在は否定できない。或いは少なくとも十二世紀北中国で青緑山水と華北平遠山水との融合から生まれた煙雲の表現が積極的に取り入れられたものと思われる。年)、八・九章を参照。…故有職有階有勲有賜有bc有功臣有諸衞、仰稽本朝官制、而以開元禮參之」。平元年、移在右掖門外、紹聖二年改院為局」。

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