鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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『東文選』巻一と『梅湖遺稿』;朴美子、『韓国高麗時代における「陶淵明」観』、白帝社、2000たとえば、夏珪様式の山市晴嵐図(メトロポリタン美術館)は北宋末の図像的要素を受け継ぎながらも、李唐から閻氏父子を通して展開した二分割の構図をとる。中景にあった山市は斧壁皴で表わされる小高い岩山と広葉の樹叢から見え隠れながら前景に吸収されてしまい、近景と遠景との強い対比を図った范寛様式にも類似する。山市は山裾に広がる客舎から細い山径を沿って見え隠れる軒並みの集落に代わり、簡略化且つ象徴化が進んで詩的情趣が一層強まっている。遠山を近づけた遠景には関門がなく、高遠と余白が生かされている。したがって、山市の客舎はむしろ山村に見受けられ、そこに木柵がついた山径や橋を渡って帰る漁師や樵も、暗い画面雰囲気とともにこの画題が夕暮れの山村風景であることを主張するかのようである。■「空間を閉じること、即ち空間の前後の構造をある奥行の範囲内に構造上あるいは様相上限定して展開すること……」、小川裕充、「雲山図論続稿(上)―米友仁雲山図巻とその系譜」、『国華』一〇九六号、1986年、p. 14、参照。「任才仲妾艷艷、本良家子、有絶色工真行書、善著色山水、河南邵澤民侍郎家藏其瀟湘八景一蘇軾、「又跋漢傑(宋子房)画山」、『東坡題跋』、「唐人王摩詰李思訓之流、畫山川峰麓、自成變態、雖蕭然、有出塵之姿、然頗以雲物間之、作浮雲杳藹、與孤鴻落照、滅没於江天之外、舉世宗之、而唐人之典刑盡矣、近歳唯范寛、稍存古法、然微有俗氣、漢傑此山、不古不今、稍出新意、若為之不已、當作著色山也」。「題洪谷子楚山秋晩圖」、「舊知洪谷古先儔、五尺横圖見十洲、千嶂排空青玉立、一江流水白雲浮、o簷共話當年雨、丹葉誰憐滿徑秋、最是無聲詩思好、恍然身在赤城遊」、(『元詩選』二集卷七、■文原条所収);「李士弘n號圖m所藏」、「王晉卿著色楚山清曉圖、有萬壽無疆之印、前所未見、或是偽物」(周密の『雲烟過眼録』卷三所収)。林椿(十二世紀後半活躍)、「題湛之家王可訓家春景山水図」、『西河集』卷一、「湖上青山山上屋、山色湖光春更緑、湖来湖去、怒濤呑吐疑無陸、漁翁帰去一竿竹、鶴汀鳧渚知幾曲、遠近蘭皐花簇簇、縹緲天涯遙極目、洞庭波淨、日暮孤帆何處宿、摩詰後孫心不俗、模寫鵝溪p一幅、李侯家藏千萬軸、此本尤非世所蓄、至寶由來鬼神欲、再三珍重爲君囑」。「奉使入金」、『梅湖遺稿』、「西華已蕭索、北寒尚昏蒙、坐待文明旦、天東日欲紅」。「追和歐梅感興」四首其二、『梅湖遺稿』、「道左賈時憎、志迂遭物責。居然見陸沈、有甚風波激。寸苗庇長材、衆彩猜太白。爭將脆似葦、却笑介如石。寧世無辜失、可忍非義得。憂來不敢3、詩以代q臆」。たとえば、幽玄斎本山市晴嵐図では荷物を担った一人が左下隅から画面右の中景にある山市へ進む。寒林を頂いた巨岩とそれから半分隠れ見える客舎が近景を成す。そこから右の山市へ繋がる橋は画面の奥関山から流れ落ちる渓流の上に懸かっている。山裾に広がる山市は小高い丘や岩に囲まれて、茅葺きの客舎が両側に並んで斜めに町並みを形成し、中央の広場では人々の様々な様子が生き生きと深遠法で取られている。山市の後ろにも石階で繋がるもう一つの山市があり、その先に関門が立ちはだかる。画面中央高く聳える巨岩の上には松と広葉樹が生えており、その中心に茅葺の亭が設けられている。構図上、この亭が中心であり、主題の面からもこの亭で行われる餞別が中心であることは疑いない。総合してみると、本図の図像は左下から右上の関門へ繋がる道筋を明確に表し、その中心点に別れを告げる亭と客舎を置き、長安を離―70―景図に繋がる煙雲平遠図の帰結とも考えられる。册、細潤清遠、真足名世也」、『宋畫録』(『清河書畫舫』卷九上、所収)。年、参照。

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