―74―(福島)(注2)、「女のもつ甘さ、弱さなどの中からべつの意味の厳しい美しさ」(田とへの嫌悪がオーバーラップされる傾向にあり、そのため戦後美術は、単なる造形芸術上の課題を越えた政治的な問題として意識されていた。それゆえ、戦後世代の芸術家には、世界における日本固有の芸術表現の確立が求められていた。しかしながらこの時代にあっても、女性作家はそうした日本の「文化的アイデンティティ」議論の外に位置づけられる傾向にあり、福島や田中も例外ではなかった。同世代の男性作家が美術史的な枠組みで語られる傍ら、福島と田中の作品は「女性的なロマンティシズム」中)(注3)といった表現を通じて評価されることが少なくなかった。このような初期の批評では、彼女たちの作品の特徴を「女性的本質」に認める視線が先にたち、同時代の美術傾向や国際社会での文化的アイデンティティを巡る議論に関連する存在としては認識されていなかったのである。そしてアンフォルメルや抽象表現主義の国際的な文脈が日本に紹介されたのがちょうどこの頃だったことは、この三人にとって大きな意味を持つことになる。タピエは1957年の来日の際、偶然の出会いから福島の作品を知ってこの日本人女性作家を「稀にみる芸術家の一人」と称賛し、田中を含む具体の作家を、世界的にも時代の最先端を行く芸術家の集団として高く評価した。「アンフォルメル」や「別の芸術」という理論を提唱しながら戦後芸術の越境運動を推進していたタピエは、福島や田中らがこの枠組みに合致すること、国際的な作家と比することを強調している(注4)。ところで、アンフォルメル言説が日本の作家や批評家にとって重要だったのは、まずこの世界との同時性だった。たとえば、東野芳明は、アンフォルメルが超地域的に共有される戦後の荒廃した精神状態と、戦前芸術を否定する態度とを結びつけている点から、西洋古典芸術とつながりをもたない日本の芸術家たちがそこに参加することへ期待を示し(注5)、瀬木慎一や瀧口修造は欧米の抽象作品が東洋の書画と親縁性を持つことを指摘した。また、具体の吉原治良はいちはやくジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングに画家の実存的な行為の記録としての先見性を見いだした。これらの人々にとって戦後の抽象絵画は、対象の再現を規範としてきた西洋芸術史からの脱出口として、そして何よりも文化的背景とは無関係で純粋・普遍的な自己を実現する方法としての意義があったのである。しかしアンフォルメルが実際には日本の画家たちを有象無象の作家の一部にしかしないことがわかると、タピエの活動は文化的ヘゲモニーを巡る政治的な運動であり、日本固有の問題には対応しないものとして退けられた(注6)。「アンフォルメルの作
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