鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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―75―家」として知られた福島や田中への注目が持続しなかったことの一因はここにあると考えられるだろう。しかし、一過的な現象ではあったものの、この国際的な枠組みを与えられた後の三人の批評からは「女性らしさ」にまつわる表現が消えていくのは注目に値する。アンフォルメルや抽象表現主義には、性別、国籍、人種、文化的背景を度外視した或る意味「作品本位」と感じられる世界があった(注7)。女性作家が1950年代の日本の文化的アイデンティティの再構築運動から排除されていたとすれば、国際的な抽象絵画の文脈は、むしろ福島や田中にとって芸術家としての自己をより自由に思考する機会を与えたのではないか。つまり、具体や実験工房といったグループ、あるいは日本美術界という彼女たちを周縁化する諸条件とは、別の世界を与え、それによって彼女たちの試みは、独自の発展をみたのではないだろうか。2.福島秀子の実験福島秀子と実験工房福島秀子の絵画は1940年代から一貫して抽象でありつづけたが、いくつかの大きな変化を経ている。初期から実験工房時代にわたる作品には、太い輪郭線に囲まれた形態(《発生》1957〔図1〕)や、正方形の色面による構成(《人》(1952)〔図2〕)など、対象を分割し再構成するキュビズムの影響が色濃い。1950年代半ばからは、これ以後の絵画のほぼ全てにみられる「円」の形態群が現れる。この円は、空缶のふちに墨を塗ったものを画面に捺し付けることでつくられ、それが繰り返されて円のグループを画面上に形成する。この円の群像はしばしば、墨で引かれた直線とともに人間の顔等を思わせる半具象的なイメージをつくり、背景の色彩の中に浮かぶ象徴的な図像をつくりだしていた〔図3〕。しかし、アンフォルメルに出会う1957年を境に、彼女の絵画の画面からは認識可能な形態や象徴的図像が消えてゆく。《作品5》(1959)〔図4〕に代表される1950年代末の作品は、色も無彩色を基調とし、初期の作品にみられた透明感や、後方に広がるような奥行きは放棄され、画面表面の質感と構造が急速に複雑化していく。福島は実験工房の主要メンバーの一人であり、展示、発表の機会では絵画制作以外にも衣装や美術を担当し、「造形部門」と「音楽部門」から成るこのグループの、ジャンル横断的な「実験」に積極的に参加してきた。しかし彼女の絵画制作は、工房の他の造形作家とは明確に異なっていた。山口勝弘によると福島は、北代、山口に見られるような「メカニック指向の作風」ではない「独自の感性による抽象絵画」を制作

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