注福島の作品が最初に国外で展示されたのは1955年のニューヨークのブルックリン美術館の第18回国際水彩画ビエンナーレだった。同展には、ハンス・アルトゥングやジャン=ポール・リオペルなど、後にアンフォルメルとして日本に紹介された作家も出展しており、福島にとって自身の絵画の広い可能性が示唆されただろうことが想像できる。Ray Falk, “Japanese Art intransition”, New York Times, April 24, 1955, Brooklyn Museum Archives. Records of the Department ofPainting & Sculpture: Exhibitions. International Watercolor Exhibition, 18th Biennale [5/4/1955−6/―81―材質がそのまま光を帯び、即物的な置き換えになっている(注24)。しかし、田中は描く行為自体を即物的、機械的な置き換えにしたわけではなかった。配線図と素描の関係と同様、ここでの描く行為は、エナメル塗料の材質に条件づけられている。画家の身体は、「描く」という行為を保ちつつも、外部的な素材の条件を積極的に受け取り、筆の動きに反映させる。つまり、滑らかで筆跡を通じた素材感がみられないことが、この田中の絵画で強調されている物質性なのであり、画家の描く身体はその物質性との関係の中に常に位置づけられているのである。《カレンダー》から《作品(ベル)》を通って《電気服》へに至る絵画的発展の道筋の中では、彼女の絵画は、作者の純粋・普遍的自己の確認に限定されず、戦後変化する物質文化の中に存在する自己に言及するものである。これによって、田中の絵画は、具体の他の作家にはみられない、描く「自己」に対する別の提言を具体化していると考えられるだろう。4.まとめにかえて以上に、福島と田中が、所属していたグループでの経験をそれぞれ別の形で絵画に反映したこと、そこでは異なる「自己」が想像されていることを述べてきた。福島と田中の絵画は、外観上の共通点はほとんど見当たらないものの、描く身体の純粋性に対する批判性は共有されている。彼女たちの絵画は、主流とされた抽象絵画に対するある知的なリアクションであり、描く行為は身体的であると同時に知的な作業として理解されるべきものなのではないだろうか。戦後の抽象絵画の一見した純粋性、普遍性は、戦後各地で多くの女性作家を魅了したものの、最終的な歴史記述の段階で彼女たちの画業が含まれることは滅多になかった。このことは、その時代の女性作家たちの絵画がこれまでの批評言説では把握しきれない固有性を持っていることの証左でもあるだろう。彼女たちの作品が十分に考察されるようになれば、戦後の抽象画はさらに展望を広げると考えられるのである。
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