植村鷹千代「福島秀子個展」『みづゑ』585号、1954年3月、61頁。■嶋本昭三「一枚の布切れでも芸術作品か」『具体』第4号、1956年7月。■ミシェル・タピエ「第一回日本旅行の精神的決済書」芳賀徹訳『美術手帖』1957年12月98〜■東野芳明「ひとつのアンフォルメル観」『美術手帖』1957年12月、107〜110頁。■たとえば、河北倫明「日本美術に求められている現代の意識」『三彩』第93号1957年11月。■このことが後に、事実上白人男性中心主義的な評価基準があったことを隠蔽し、性的人種的マ■山口勝弘「〈実験工房〉と美術の脱領域」『実験工房と瀧口修造』(第11回オマージュ瀧口修造「第二回発表会」に際した座談会で北代と武満徹は、クレーの音楽を美術に翻訳する手法を「メカニック」であると言及している。「[座談会]メシアンを巡って」『実験工房第4回発表プログラム』、1952年、頁数無記載。たとえば、宮川淳は福島の絵画の空間構成を「音響的」だとと表現し、瀧口は東洋音楽の「間」と喩えている。宮川淳「音響的な空間」『美術手帖」1963年8月、23〜26頁。瀧口修造「福島秀子」『美術手帖』1958年1月号、47頁。福島秀子「未知のものへの探求」『美術批評』1957年1月、18〜19頁。コピーでの入手につき出典不明。確認中。無記名「福島秀子個展」『アトリヱ』1954年5月、100頁。タピエは、米国の抽象絵画のスポークスマンであったクレメント・グリーンバーグが女性画家を無視したのとは対照的に、ジョアン・ミッチェルやクレア・フォルケンスタイン等女性作家も積極的に評価した。タピエ、前掲書、101頁。安東次男「新人福島秀子」『芸術新潮』1960年、9月、184〜89頁。福島秀子「対談カイゼンカラーをめぐって」『新しい水彩/みづゑ選抜作家展』カタログ、美宮川、前掲書、23頁。 加藤瑞穂「境界の探求」『田中敦子未知の美の探求1954−2000』展カタログ、芦屋市立美術博物館、2001年、6〜14頁。これは田中の活動を包括的に取り扱ったもっとも早い論考で、これまで批評家を混乱させてきた田中の具体での位置を明確化し、以下に述べる田中の物質と身体の関係性を解き明かした。■吉原治良「具体美術宣言」『芸術新潮』1956年12月202〜3頁。 「田中敦子自作を語る」『Circle/Lines「田中敦子」展普及プログラム記録集』静岡県立美術館、■同上、15頁。■加藤、前掲書、9頁。―82―12/1955][02]. 他方米国での田中に対する関心は1960年代以降目覚ましく、1964年のグッゲンハイム国際賞展で田中の絵画が与えた強い印象が、翌年ニューヨーク近代美術館他を巡回した「日本の新しい絵画」展への出展と同館への作品の買い上げにつながる。なおこの同展には福島秀子の1960年代の作品も出展候補にあがっていたことがアーカイブ調査で判明した。TheMuseum of Modern Art Archives, NY: International Council/International Program Exhibition RecordsThe New Japanese Painting and Sculpture (MoMA Exh. #809, ICE-D-13-64)102頁。2003年、7〜15頁(9頁)。イノリティーを結果的に排除した言説だったことは重要である。展図版)佐谷画廊、1991年、25頁。術出版社、1960年、頁数無記載。
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