鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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1.第8回帝展と京都の工芸⑴新進の躍進第8回帝展では、工芸の応募総数は、日本画2,201点、西洋画2,549点、彫塑223点に対して1,023点で、日本画、西洋画の半数を下回るものの、初回としては多数の応募をみた。入選率は10%で、日本画の11%、西洋画9%に並ぶ厳選の傾向を示した。第8回の審査結果について、新聞や雑誌は総じて、多数の新人の入選とそれに対する大家の落選が目立つ点を伝えた。大阪朝日新聞は審査員の津田信夫の言葉を引用して「「新工芸時代来る」…大家の中に聞いたこともない新人が入りまじつてゐる」(注3)と伝え、京都日出新聞も、「発表の結果を見ると入選確実と思はれる大家の顔がなかつたり、無名の青年作家の名があったりしてゐる」(注4)と報じた。東京日日新聞は、「枕ならべて老大家悲運 議論百出した帝展第四部 伝統に勝った独創」という見出しで、「京都あたりから出品されたつゞれの錦やその他の高価な技巧を極め― 92 ―⑨帝国美術院展と京都の工芸序研 究 者:京都市美術館 学芸員  後 藤 結美子明治40年(1907)の文部省美術展開設以来、切望されていた官展への第四部美術工芸部の設置が昭和2年(1927)、第8回帝国美術院展においてついに実現した。この官展への工芸部の編入は、工芸が近代美術として社会的な認知を得たと言う点で、近代工芸史に特筆すべき出来事とされてきた。明治43年(1910)の第4回文展から、東京と共に文展の開催地となっていた京都においても、官展への工芸編入には多大な関心がもたれていた。大正半ば以降、京都では芸術的な工芸の発表を目指した団体結成や展覧会が盛んに開催され始めていたが、官展に工芸部門がないことに飽き足らず、大正13年(1924)には、多くの工芸家が参加していた神坂雪佳主宰の京都美術工芸会(注1)にその代わりを果たすべく公募部門が設置された(注2)。帝展に工芸部が開設されて以降は、京都からは東京に次ぐ規模で出品がなされ、審査員や受賞者が多数輩出した。本論では京都の工芸界を例にとり、帝展という「美術」展に向け、工芸家が美術としての工芸をいかに模索し、芸術家としての意識を深化させていったかを探りたい。まず帝展に工芸部が新設された昭和2(1927)年の第8回帝展について概観し、その後、京都からの帝展出品作の傾向について考察を加えたい。

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