― 93 ―た織物類が」無残な落選を見たと伝えた(注5)。かつて海外で賞賛を浴びた京都の精巧な綴織は、帝展では落選の憂き目を見たようだ。入選者でもあった染色家の廣川松五郎も、従来の工芸の総合展にあった「観工場物」が影をひそめ、「技巧に終始して美の発相に盲なるもの」(注6)が少なくなったと述べ、従来の商業本位で、技巧を凝らした出品物は減少し、芸術本位の作品が増したことを指摘している。⑵京都の出品作 ― 陶芸、漆芸、染織このように第8回帝展では、全体的に明治期以来の技巧本位の作品は受け入れられず、芸術的表現を重視する新進が躍進するという傾向が見られたが、京都の出品作にはどのような傾向が見られたのか。京都の出品点数は全112点中21点で、全体の約19%を占め、圧倒的に多い東京の75点に次いで出品数の多い府県となった。その中で優勢なのは陶芸だった。陶芸の全出品数20点のうち13点を占めたのが京都の作品で、京都の出品作全体の中でも、陶芸は最多であった。陶芸に次いで数が多いのは漆芸と金工でそれぞれ3点ずつ、染織が2点だった(注7)。ちなみにその後、帝展の改組前までの京都の出品傾向を見てみると、全回において陶芸の数が勝り、漆芸と染織がそれに次いでいる(注8)。ここでは、京都の帝展工芸の主要分野となる陶芸、漆芸、染織を取り上げる。工芸批評家の渡邊素舟は第8回帝展の京都の出品作について「全く失望」、京都の作家は、「遠く東京の作家に及ばないことをより明かに示した」(注9)と述べ、金工家で新興工芸の牽引者だった高村豊周は「総観すると東京と京都とは段が違って見える。京都はひどく悪い」(注10)と評し、京都の作品に対する東京側からの評判は総じてあまり良くない。陶芸の13作品11名の出品者は、京都からの唯一の工芸家の審査員であった清水六兵衞(注11)や伊東陶山、図案界の重鎮で陶器も手掛けた澤田宗山を除くと、20代から30代に集中する点が注目される。出品者をみると最初に目につくのは京焼の名家出身の者である。審査員の清水六兵衞とその嫡子、正太郎は五条坂陶家の五代目と六代目、伊東陶山は三条粟田焼の名家の二代目で、淺見五郎助と小川文斎は五条坂の名家の三代目と四代目、共に30代である。河村蜻山も粟田の名工の長男で30代、技法、意匠ともに、革新的な要素を陶芸に取り込み、後に清水六兵衞と対峙する存在として若き陶芸家を率いた。蜻山の弟の河村喜太郎は20代の新進作家で、陶磁器に芸術的表現を求め、同じ入選者の楠部彌弌らと大正9年(1920)に若手陶芸家の団体、「赤土会」を興した。具体的に作品を見ると、京都の陶芸の入選作には森野嘉光のように、特選候補に挙
元のページ ../index.html#103