第8回帝展では、新傾向の作品ばかりでなく、伝統的作風のものも高く評価された。岡本為治は、河村蜻山門下の新進陶芸家で、作品は工芸部からの3点の帝室御買上品の1点に選ばれた。《白瓷葡萄文花瓶》〔図3〕は、浮彫の葡萄文を配した双耳花瓶で、大阪朝日新聞は、口の大きい不均衡な形を軽快に見せた点、中国越州窯にならった白磁の釉薬の効果について賛辞を込めて叙述している(注15)。東京朝日新聞は「先人の作品について、意匠、技巧を研究し、これをよく理解して作られたもの…いわば名器のあこがれから出た…愛玩欲を起さしむるもの」(注16)と評した。― 94 ―がったものもあった(注12)。帝展を新たな活動の場とする陶芸家の傾向として、美術学校の絵画科を修了した者が増えるが、森野もその一人であった。《草花文(陶製花瓶)》〔図1〕は、赤色の地の上に文様を彫り、艶消しの白釉で覆った上から緑釉を「青流し」にした点が、前人未到で独創的と評された(注13)。従来の陶磁器の伝統からは離れ、新興様式を摂取した作品も注目を集めた。楠部彌弌は三条粟田口の陶匠の四男で、京都陶磁器試験所で学んだ後、その同期生と前述した「赤土会」を設立する。出品作の《葡萄文壺》〔図2〕は、当時「構成派」と称された西欧の新様式を取り入れて、幾何学的な器体に抽象化した葡萄文を配し、艶消しの澱彩釉をかけることで、陶器の温かみをあえて無機的に見せた作品である。高村豊周は第8回帝展の作品評中で京都の陶芸について、「この位の成績では京都の工芸のレイゾン・デートルを疑ひたくなる」と言っていたが、その中で楠部の作品が最も眼についた、と述べた(注14)。漆芸については3点の入選をみたが(注17)、その内、徳力(井上)彦之助と平舘■(嘉邦)は、いずれも華曼草社(華鬢艸社)(注18)の創設メンバーであった。華曼草社はジャンルを跨いだ芸術志向の新進工芸家による団体で大正13年(1924)に京都で結成され、東京発の美術雑誌で紹介されるなど、京都の工芸団体としては異例の注目を浴びていた。「老級連から寧ろ批難され」(注19)ていた彼らの初回の帝展への入選は、京都漆芸界では驚きをもって報じられたようである。日本漆器新聞では、徳力の《欄翠響■》〔図4〕は、葡萄の実と葉が天板から側面へかけてあしらわれた蒔絵手箱で、遠慮も作法もなく自由な作品で「血の滴る様の感じがして非常に面白い」(注20)と評された。染織は、入選数が少なく不振と伝えられる中、京都からは綴織の山鹿清華と糊染の皆川月華が入選、山鹿が特選受賞という快挙を成した。山鹿も皆川も元来は図案家で、山鹿は西陣の図案家として出発し、神坂雪佳の門弟として京都美工院の指導的立場にあった。
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