― 96 ―門とは異なる分野の作品を出品した。鋳造作家である津田信夫は漆の手箱を、洋画家の和田三造は染色と刺繍の衝立を出品したが、両作を見て「今日の工芸家は専門家である前にまづ人間としての作家である点を学ばねばならない、いつまでも専門家の名期奉公であることは許されない」(注22)と渡邊素舟が述べの下に、単に技巧への年たように、帝展に臨んだ工芸家らは、技術の出来不出来が作品の良否を決めるのでなく、独創的な発想や主題、そして表現の手法こそ問われるべきだという、新しい工芸の在り方を推し進めようとしていた。帝展は、分業制作が主であった工芸に、図案から制作まで一貫して一人の手で行う個人作家を登場させた。元来は実制作者ではなかった者が個人作家になる例が多く見られ、特に染織の分野にその傾向が顕著に現れた。藤井達吉によると大正期は「染織刺繍はほとんど実技家は資本者に買はれ一人も表面に現はれた人がない」(注23)という状態であったが、帝展を転機として頭角を表し始める染織作家が登場する。「ろう染」は、その契機をもたらした技法の一つだった。筆で図柄を直接ろう描きするため、比較的容易に絵画的表現が可能なことから、ろう染は帝展の染織作品の間に急速に広まっていった。ろう染技法は当初は京都で着目されるが(注24)、帝展では、むしろ東京以北の「染色工芸家と云うより、全く画家と称する人達」(注25)の間で流行する。京都でろう染作品が帝展に初入選したのは意外に遅く、山鹿清華とともに京都市立美術工芸学校の図案科教員を務め、第11回展に入選した山田江秀がその嚆矢であり、その後、京都のろう染の代表作家となる小合友之助(第13回展初入選)、佐野猛夫や楠田撫泉(両者とも第14回展初入選)が登場した。⑶「刺繍」という新興分野帝展の全回を通してみると、京都の染織作家が手掛けた技法で多いのはろう染と綴織であるが、それに次ぐのは刺繍である。刺繍は元来、着物や帯の加飾技法であるか、明治期以降は絵画を刺繍で再現した輸出向けの品が主流であったが、帝展に登場して以来、一個のジャンルとして自立し、京都ではろう染に並ぶ新興分野として確立していく。刺繍を推進した作家の一人は岸本景春だった。山鹿と同じく神坂雪佳に師事し、その後、やはり図案家として染織業に携わり、大正2年頃から刺繍の研究を始め、第11回帝展で初入選、第13回帝展では早くも特選を受賞した。京都の伝統的な刺繍である京縫は、撚りをかけない平糸を用いるが、岸本はそこから脱し、西欧やインドの刺繍の要素を取り入れて、片撚りの太く存在感のある糸によって、それまでにない独創的な図案の刺繍作品を制作した。■■
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