鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 97 ―1930年代になると、海外思潮をヒントにしながら、工芸の「用途」に挑戦しようとする試みも現れた。昭和9年(1934)、先述した徳力彦之助ら、帝展を主な活動の場とした漆芸家が集まり、「流型派工芸研究会」(注27)が結成された〔図12〕。流型派とは、20世紀初頭のアメリカを中心に、自動車や飛行機や日用品、家電品にいたるまでを席巻した工業デザイン、「流線形」に由来する。日本でも昭和9年から10年にかけて流線形が合理性や先進性を想起させる流行語となり、流線型カバーで被った機関車が東海道線を走ったりした。このように時代を覆った新意匠に目を向けることで、流型派は現代人の感覚に合う新しい漆芸作品を創造しようとした。さらに流線形が表面装飾を否定し、形態自体の美を提示した画期的なデザイン思潮であった点にも着目また岸本景春は、中国などで盛んで、表裏から図柄を見られるように刺繍を施す「両面刺繍」を帝展出品作に取り入れた。特選受賞作となった《両面刺繍潮衝立》〔図10〕は、岩礁の貝類と揺らぐ海草、泳ぐ深海魚を刺繍糸で表し海底の様子を描写した作品である。水中を表すため、木綿糸で荒く織った地を用い、向こう側を透かしてみせている。地糸の目地を寄せて、波を表したりする点も荒い生地ならではの工夫で興味深いが、荒織の地は、刺繍技法そのものを際立たせてもいる。両面刺繍の衝立という形式は、刺繍技法を主役に据え、刺繍が他の技法に依存せずに自立できる方法として選ばれている。岸本と同じく、戦前の官展に入選を重ねた刺繍家に箸尾清〔図11〕がいる。箸尾はろう染を復興させた染色学者・鶴巻鶴一等に指導を受け、大正期から刺繍作家として一家をなしていた。箸尾の制作においても、いかに表現するかが先行し、素材は表現対象に即して選ぶという姿勢が見られる。その制作手法において興味深いのは、絵画が、明治から大正にかけて、筆触を荒く残すという方向に変化した点に注目し、刺繍も従来の手法を刷新し、絵画にならった表現方法を見出そうとする点にある。具体的には、刺した糸を絵画の筆触のように見なし、糸の方向を統一して静かな感じを出したり、逆に捻じった線を重ねて動きを表したりと、単純で自由な方法で個々の糸に絵筆のような表現力を持たせようとした(注26)。刺繍には、下図に従わずとも、途中で縫う方向や範囲、色を変えられるという自由さがあり、この柔軟さが刺繍の新たな表現の可能性をもたらしたといえる。帝展において工芸が、日本画や洋画などの「美術」と併置されるという点は、何よりも工芸家に、美術としての工芸をいかに模索するかを促した。帝展における刺繍の台頭は、その試みの一つの現れだと考えられる。⑷ 「用途」への挑戦

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