鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
108/597

注⑴図案家と工芸家の研究団体として明治40年に佳美会の名で設立、その後佳都美会、佳都美村などと改称し、大正13年には京都美術工芸会として再発足、大正15年には京都美工院と改称した。昭和17年の雪佳の死を以て活動を終えた。月12日⑵日野永一「京漆器近代デザインの流れ」『京漆器:近代の美と伝統』光琳社出版、1983年、250⑶「〈新工芸時代来る〉大家にまじる新人の顔…発表された帝展新設工芸部入選者」『大阪朝日新聞』1927年10月11日⑷「美術工芸会の割時代来る 入選者は青年作家 染色漆金はさみしい」『京都日出新聞』1927年10⑸『東京日日新聞』1927年10月9日⑹廣川松五郎「美術工芸部評」『美之国』3巻9号、1927年11月⑺参考までに東京の出品数と述べると、東京からの陶芸の出品数は3点、漆芸の全出品数は27点で、東京からは20点、金工は全体で54点、東京は46点、染織は全体で10点、東京は5点だった。⑻京都からは第15回帝展まで、陶磁器、漆芸、染織、金工以外のジャンルの出品はない。本論では触れないが、京都の金工は帝展全回を通じて、各回1〜3点の出品数である。⑼渡邊素舟「帝展工芸美術評」『読売新聞』1927年10月17日⑽高村豊周「帝展第四部の印象」『美術新論』2巻11号、1927年11月⑾清水六兵衞は直前に盲腸炎を患い、第8回展の審査には参加していない。― 98 ―し、蒔絵や螺鈿などの表面加飾を主とした従来の漆芸の在り方に対して、漆芸の形態美という新たな美を提起しようとした。流型派が目指した形態の革新とは、工芸の形を決定する「用途」に対する一つの挑戦でもあったであろう。帝展という「美術展覧会」の場においては、視覚的に観者に訴える形の創出が、工芸家の新たな課題であった。流型派は、「流線形」を援用しながら「用」に縛られない自由な工芸の「形」を模索しようとしたのではないだろうか。それは戦後の用途に縛られないオブジェ工芸の登場を予期しているようにも思える。付記本稿の執筆にあたっては、下記の方々から資料提供や聞き取り調査などご協力・ご指導を賜りました。ここに記し、深く御礼申し上げます。酒井栄一、佐藤雅子、柴崎■、武石勇二、徳力竜生、徳力康乃、松本幹子、宮崎芳郎、耕三寺博物館・吉田守、千葉市美術館・藁科英也、敦井美術館・渡辺新太、京都市産業技術研究所工業技術センター・阿佐見徹、比嘉明子、京都市立芸術大学芸術資料館・清水佐保子(敬称略)頁

元のページ  ../index.html#108

このブックを見る