2 ブロッツィの壁画《聖会話》の特質ギルランダイオの帰納法的な初期の制作例として、フィレンツェ北郊6キロのチェルチーナの壁画〔図6〕の脇侍の例が挙げられる。この二体の脇侍、聖ヒエロニムスと修道士聖アントニウスは、1470年頃のヴェロッキオに帰されるアルジャーノの《磔刑》の脇侍からそのまま採られている(注9)。このためパッサヴァンは、ギルランダイオはヴェロッキオ工房においてチェルチーナの壁画のカルトンを制作し、しかも壁画の注文そのものがヴェロッキオ工房を通して行われたのではないかと推定した(注10)。そればかりか中央部の《聖バルバラ》も、塔の雛形を左腕に抱えて悪徳の擬人像を踏みつける姿勢は、フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータ教会にあったコジモ・ロッセルリの《聖会話》〔図7〕から採られている(注11)。― 103 ―いては、周囲が湿地のためマラリアに悩まされていた地域なので、その守護聖人として描かれたといわれる。また聖ユリアヌスの図像も、その伝承を綴った『黄金聖人伝』の内容が川にまつわり、渡し守、船員、魚屋の守護聖人であったので、それらが寄進と関係していると考えられる(注5)。しかし壁画制作の経緯については、記録が残っていないため分かっていない。制作年代は、1460年代末から1475年頃までが推定されており、ギルランダイオの最初期の真作であることでは異論はない(注6)。教会堂は、1944年に戦災により内陣が一度破壊された。また、1966年のアルノ川の洪水では壁画も損傷したため、翌年に修復された。その際、上段の《洗礼》はストラッポによりキャンバス地に移されており、シノピアを見ることができる(注7)。戦前のアリナーリの写真により、修復以前の壁面の状態を知ることができるが、細部において現状とはやや異なっている。すでに19世紀末には、壁面はかなり傷んでおり、湿気による顔料の変質で退色が進んでいたことが報告されている(注8)。このようなチェルチーナの壁画における制作過程は、ブロッツィの壁画においても同様の手順を推測させる。前述のように、二体の脇侍の手本は明らかであるが、中央のニッチの中に着座した聖母子〔図8〕については、そのモデルは明確ではない。ベレンソンは、メトロポリタン美術館のヴェロッキオの初期に同定される《聖母子》(Inv.14.40.647)が、ギルランダイオに強い印象を与えたと述べている(注12)。確かに両者には、聖母の表情や、祝福するような幼児キリストの姿態など共通点は多い。しかし聖母は立ち姿で、幼児も聖母の膝ではなくパラペットの上に立たせている。ショアの研究によると、このような着座した聖母の膝の上に祝福する幼児キリストを立たせる作例は、14世紀のシエナ派で流行ったタイプで、トスカーナ派では僅かで
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