3 ペトルゥス・クリストゥス作《ポルティコの玉座の聖母子》との関係筆者は、このギルランダイオの初期の《聖会話》に現れた特質が、プラド美術館にあるペトルス・クリストゥスの《ポルティコの玉座の聖母子》〔図9〕と関係があるのではないかと考えている。この《聖母子》は、2008年にフィレンツェのピッティ宮で開かれた「フィレンツェと古ネーデルラント」展においても比較作例として展示された(注14)。それはこの板絵が、カンザスシティーのネルソン・アトキンズ美術館にあるクリストゥス作《室内の聖家族》(Inv.56.51)と共に、フィリッポ・リッピのピッティ宮のトンドの《聖母子》(Inv.383)に影響を与えた可能性が指摘されているためである。確かにリッピの錯綜した室内図は、ヴェネチアのベリー公爵夫人が所蔵していた、カンザスシティーの《室内の聖家族》に共通するものがある(注15)。― 104 ―あるという(注13)。ギルランダイオは1470年代末に、ルッカのサン・マルティーノ教会のために《聖会話》を描いているが、そこでも幼児を膝に立たせた聖母子を描いており、背後の古代風のアエディクラから風景を望むという形式も踏襲している。つまり、着座した聖母とその膝に立つ幼児キリスト、そして玉座の背後から望む風景というのは、ギルランダイオの初期の《聖会話》の特質ということができる。しかし筆者には、このクリストゥスの《ポルティコの玉座の聖母子》に関しては、むしろブロッツィの壁画《聖会話》との類似性を感じる。両者を比較してみると、クリストゥスの《聖母子》もまた、聖母の膝に立つ幼児キリストと背後の風景という点で一致している(注16)。さらに注目すべきは、玉座の背後のアーチ越しに臨まれる風景である。その水辺には舌状に張り出した岸が幾つか描かれている。ギルランダイオの《聖会話》のテラスの背後に望まれる水景にも、これとほぼ同じ形状の入り組んだ岸辺が描かれている(注17)。修復以前の写真で見ると、これらの岸辺には城壁や家屋がうっすらと確認でき、その類似性はより顕著であるように思われる。現在プラド美術館のクリストゥスの《ポルティコの玉座の聖母子》には、ジェノヴァとマドリッドの個人コレクションに二点のコピーの存在が確認されている。しかしジェノヴァのコピーは、1931年のオークション以降の所在地は不明である(注18)。ペトルス・クリストゥスとイタリアとの関係は、公文書の記録からも窺える。特に重要なのは、1453年のスフォルツァ公の「Piero di Burges」に対する「人物画(figura)」への支払い記録である(注19)。PieroをPetrusとして、BurgesをBrugesと解釈するならば、クリストゥスはミラノの宮廷のために肖像画を制作していたことになる。また1492年のメディチ家の目録には、「油彩で彩色されたフランス婦人の頭部を
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