5 結論筆者は、様々な状況証拠を勘案して、ギルランダイオがサン・タンドレア・ア・ブロッツィ教会に描いた《聖会話》の壁画には、クリストゥスの《ポルティコの玉座の聖母子》の影響があったと推断した。特に類似点として、テラスに据えられた玉座に着座した聖母と、その膝に立って祝福するような手振りをした幼児キリストの姿態、そして玉座の背後から臨まれる風景に、舌状に水辺に張り出した岸が幾つか描かれているという点である。このようなフランドル的な構図の《聖母子》は、すでに1470年代後半にはロンドンの作例のように、ギルランダイオによって適用されていた。メディチ家の1492年の目録からも、クリストゥスの《婦人の肖像》がフィレンツェにあったことは確実である。また、クリストゥスの《ポルティコの玉座の聖母子》のコピーはジェノヴァにもあった。さらにカスターニョやポライウォーロからの人物像の直截的な引用は、ギルランダイオの帰納法的な制作を初期から裏付けている。しかしそれだけでは、トスカーナの伝統的な《聖会話》からではなく、クリストゥスの《聖母子》から聖母を引用した積極的な理由にはならないだろう。例えばペヒトは、クリストゥスの造形的特質に、ロヒールの感情表現を超えたオランダ絵画の性格の先取り、つまり「瞑想的な基本的雰囲気」があったとしている(注30)。ブロッツィの聖母の表情にも、このような瞑想的な雰囲気は反映しており、《聖会話》という祈念画の趣向を高めるために、ギルランダイオはクリストゥスを参照したとも考えられる。注⑴筆者はすでに、この問題について以下でまとめている。「ギルランダイオの初期作ブロッツィの《聖会話》におけるフランドル絵画の影響―ペトルス・クリストゥス作プラドの《聖母子》との関係について―」『越宏一先生退任記念論文集 ルクス・アルティウム』中央公論美術出版、2010年、254−265頁。― 106 ―の作例でも、聖クリストフォロスの頭部は、左を振り向いて仰ぐ姿勢をとっている。また舌状に岸辺が張り出しているという点でも共通している。アルベルト・バウツの《聖クリストフォロス》の制作は、1480年代に推定されているので、ギルランダイオの直接の手本にはなりえない(注28)。しかしバウツの図像は、ファン・エイク派の《聖クリストフォロス》の素描にまで起源を遡るといわれる(注29)。⑵G. Francovich, “David Ghirlandaio I,” Dedalo, 11, 1930/31, p. 74. リュネットの《洗礼》については、ラウツのように弟子のセバスティアーノ・マイナルディに帰す研究者もいる。いずれにしても、ヴェロッキオがサン・サルヴィ修道院のために描いたウフィツィ美術館の《洗礼》を手
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