鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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1 生涯についてヘルドルプの最も早く、また知られている限り唯一の伝記的史料は、存命中に出版されたカレル・ファン・マンデルの『画家の書』所収の「ルーヴェンの画家、Gualdrop Gortzius、通称Geldropの生涯」(以下、「Geldrop伝」と略記)である(注4)。それによると、ヘルドルプは1553年にルーヴェンで生まれ、17−18歳のとき、画家としての修業を積むため、芸術の中心地であったアントウェルペンへ赴いた。彼は最初、フランス・フランケン一世(Frans Francken I, 1542−1616)の、次いでフランス・パウルビュス一世(Frans Pourbus I, ca.1545−1581)のもとで学び、ほどなく、テラノヴァ公カルロ・ダラゴーナ(Carlo d’Aragona e Tagliavia, ca.1520−1599)のお抱え画家となる。その後、ネーデルラントとスペインとの間の紛争を調停する講和会議が1579年にケルンで開催された際、スペイン側の全権大使として派遣された公に随行して同地に赴き、そのままそこにとどまることになった。― 113 ―⑪ヘルドルプ・ホルツィウスのケルンにおける活動研 究 者:大阪大学大学院 文学研究科 博士後期課程  河 内 華 子はじめにヘルドルプ・ホルツィウス(Geldorp Gortzius, 1553 − ca.1619)(注1)は、アントウェルペンで修業を積んだ後、1579年から亡くなるまでの約40年間にわたってケルンで活動した画家である。しかし、この時期に同市で活動したネーデルラント出身画家たちに関する研究は、他都市に比べて少ないと言わねばならない(注2)。ヘルドルプに関しては、フェイによるいくつかの論文のほか、個別の作品に関するいくつかの論考があるものの、体系的な研究は未だ行われていない(注3)。ヘルドルプの長期にわたるケルンでの活動について明らかにすることは、ネーデルラント移民芸術家たちの研究において、興味深い事例を提供するものと期待される。以下ではまず、この画家の生涯に簡単に触れ、その上で、作品についての考察を通じて、その画業の一端を明らかにすることを試みる。16世紀最後の四半世紀、ネーデルラントにおける政治的な混乱と経済状況の悪化によって、多くの芸術家が活動の場を他国に求めたことはよく知られている。彼らにとってケルンは、ドイツ(神聖ローマ帝国)における最も重要な移住先のひとつであった。

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