2 作品について報告者は現在、この画家の全作品カタログを作成することを目的に、作品の調査を行っている。公のコレクション、研究機関のデータベース、オークションカタログなどの調査の結果、160点を超える帰属作品が挙がってきており、これら一つひとつを精査するにはなお多くの時間を要する。そこで、調査の第一段階として、美術館など公のコレクションに所蔵されている作品に対象を絞り、それらを可能な限り実見し、あるいは図版を集める作業を行った。2010年4月までの時点で、帰属作品を含む90点の油彩画作品がリストアップされている中で、実見することのできたものは34点、写真によって見ることのできたものは31点、調査はできなかったものの所蔵が確認された作品は10点である。― 114 ―「Geldrop伝」では、移住後の出来事は逐一述べられず、主要作品の列挙をもってこれに代え、彼が1604年の時点でなお、肖像画家としてケルンで活躍中であることを告げて締めくくられる。その後のヘルドルプの生涯については、1610年度と1613年度の2期にわたって参事会員を務めていたこと(注5)、また、市庁舎参事会議場のために《磔刑》を制作したことが知られている(注6)。これらの記録から読み取ることができるのは、ヘルドルプが、アントウェルペンにおいて大きな影響力を持ったフローリス工房の流れを汲む画家であったこと、移住後はもっぱら肖像画家として名を知られていたこと、そして1609年までには、画家としても市民としても安定した地位を築いていたことである。大司教座聖堂を擁するカトリック都市ケルンにおいて、プロテスタント信仰を持つ者が多くを占めるネーデルラント移民に対する警戒心は強く、特に参事会入りに際しては厳しい審査が行われていた(注7)。これにより、ヘルドルプはカトリックであったと考えられる。このことは、移住者として安定した足場を築く上で有利にはたらいたことは間違いないが、それだけで彼がケルンにとどまり続けた理由を説明できるわけではない。次節以降では、ヘルドルプのケルンでの画業を通してうかがえることを明らかにしていく。先行研究において、ヘルドルプ作品の最大の特徴とみなされているのは、霞んだように輪郭の曖昧な、非常に柔らかな画風である(注8)。現時点までに見ることができた64点のうち、ヘルドルプの二つのGのモノグラムを伴い、この様式的特徴を備え
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