4・5)が挙げられる(注14)。前者の肖像画群のうち、紋章と年齢から確実に特定が可能なグアルテロ・デル・プラドは、1585年頃にケルンに移住し、主にヴェネツィアはじめイタリア諸都市との織物貿易で財をなした商人である(注15)。彼の妻の出身一族であるぺリコルネ、および娘婿らのフォルメノワ、ボーディノワはネーデルラントの商人の家系で、同様にケルンやアントウェルペン、ヴェネツィアなどを拠点に、広範囲な貿易を営んでいた。後者のゴッドフリート・ハウタッペルは、アントウェルペンの参事会員で、1590年代以前にケルンに移住し、ヴェネツィア、ナポリを拠点にやはり織物交易を営んでいた商人である(注16)。2−2 歴史画― 117 ―現時点で把握できているヘルドルプの顧客層においては、ケルンの上流市民および外国商人が重要な部分を占めていたことがうかがえる。ここで、これらの人々にとって肖像画がどのような意味合いを持つものだったか、考えてみる必要があるだろう。参事会員ヘルマン・ワインスベルクの日記には、彼が65歳のときまでに5回、肖像を描かせたことが記されている(注17)。1番目は学士の学位取得後の23歳のとき、2番目は最初の結婚後の33歳のときのものであり、3番目と4番目は39歳と41歳のときに、寄進者像として教会の祭壇画に描かれたものである。このうち、2番目の作品は、最初の妻の肖像画と共に自邸の広間に飾られていることが述べられている。2度目の妻の肖像は、再婚後まもない時期に寄進された祭壇画に描き込まれた。ケルンの上流市民、特に市政に携わることのできる家柄の市民は、互いに婚姻を通じて複雑に結びつき合い、関係を強化していた。ヘルドルプの肖像画作品の中には、夫婦肖像画や家族肖像画が多く含まれる。それらは必ずしも同時期に注文されたものではなく、ときには10年以上の隔たりを経て制作されている(注18)。これらの市民たちにとって、肖像画は、自らの出身一族と他家との結びつき、さらにそれによる繁栄の証として折ごとに描かせるものであったと考えられるのである。同時に、こうした機能を持つ肖像画の依頼は、画家にとって、親族のつながりを通じた顧客の広がりをもたらすことにもなったであろう。ヘルドルプの肖像画家としての成功は、市長はじめ参事会員や裕福な商人から、安定した注文を獲得できたことに支えられていたと考えられる。現時点では、〔表2〕の7点と〔表3〕の《スザンナと長老たち》〔図4〕および《磔
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