鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 118 ―刑》〔図5〕の2点が挙げられ、年記がないものも含めて、いずれも1600年代以降の作品と考えられる(注19)。これらにおいては、肖像画には見られない強い明暗の対比や粗い筆致が多用され、物語の一場面としての性格が強く表れている。特に、《磔刑》や「四福音書記者」の連作〔図6〕における情動や瞬間性の表現は、強いドラマ性を感じさせ、対抗宗教改革期美術のひとつの特徴とみなされるものである。「Geldorp伝」において、主題を挙げて言及されているヘルドルプ作品はいずれも歴史画であり、いずれもケルンや他の都市の愛好家に所有されていることが述べられている。現在知られている作品のうち、肖像画の顧客の一人であるヤーバッハが所有していた「スザンナの絵」と同一視されている図4や、パッセの版画によって知られる祈念画のキリストとマリア、マグダラのマリアなどは、大きさや形式から見て、個人の注文であったと考えられる(注20)。この他で、制作背景に関する情報が得られるものとしては、《磔刑》と「四福音書記者」の連作が挙げられる。《磔刑》は、1602年に完成した新市庁舎において、参事会議場正面の2つの市長席の間に飾られていたとされる。他の登場人物を伴わず、十字架の上で天を見上げるキリストを描いたこの作品は、ほぼ時期を同じくするリュベンスの同主題作品とともに、このタイプの磔刑像の最も早い作例のひとつとみなされている(注21)。同時代の記録は、ケルンにカトリック信仰が定着して以来の慣習である、公の場に磔刑像を掲げて崇敬する伝統の中にこの作品を位置づけ、毎週、議会が開かれるたびに顕示されるものだったことを伝えている(注22)。参事会による注文記録は知られていないものの、16世紀末から市長ヨハン・ハルデンラスの主導のもと、急速にカトリック色を強めていく市当局の意向に沿う作品であったことは間違いない(注23)。「四福音書記者」の連作は、1604年から1年に1点ずつ制作されており、最後の1点と考えられる《聖ルカ》は年記を伴わず、また顔や右手に下塗りのままの部分が残り、未完成であることを示している。この作品に基づく銅版画は、パッセによって1607年に出版され、参事会に献呈された(注24)。プロテスタントであったパッセは、市当局との関係の悪化を危惧しており、おそらく心象を和らげる目的でこの作品を贈ったものと考えられている。この献呈は、パトロンであるライスキルヒェンの息子のとりなしにもかかわらず、結局受け入れを拒否され、パッセは1611年の追放令によって市を追われる。対照的に、ヘルドルプは1609年に参事会員に選出され、その後も市の有力者と関係を強化していったものと思われる。1613年、参事会員に再選された年に描かれた、市長ハルデンラスの肖像〔図3〕は、

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