― 3 ―れは、一国の皇帝は2つの耳を持って様々な意見を聞かなければならず、すると、全てのことが明瞭にわかり、見識のある君主として国を治めることができるということであり、逆に、片耳で聞くことは様々な意見を聞けず、良い君主にはなれないということを意味しているのである。郎世寧はこの本を読み、ようやくなぜ乾隆皇帝が立腹したのかが分かった。西洋画家は、立体感を出す為に、ほとんど45度の側面から肖像画を描くが、清代中国人の習慣にはそぐわなかったのである(注4)。結局、改めて乾隆皇帝の肖像画を描き直した。それは完全に真正面を向き五官がはっきりと描かれた。それによって威厳ある姿を表し、特に両耳は少し大きくして、中国伝統の人相学、及び古来中国の標準的な帝王像の描き方を参照して、西洋画法と中国画法を融合した独自の表現手法を考えながら仕上げた。乾隆皇帝は、作品の出来栄えに大変喜び、郎世寧の絵画技術を大いに賞賛した(注5)。続いて皇后、皇妃の肖像画も描いた。彼女達は、皇帝の肖像画が正式な朝服を着たものであったので、当然他の服を着ることは許されないと考え、同じように正式な朝服を着て肖像画のモデルとなった。こうして、乾隆皇帝と后妃の正式な朝服像はイタリア人の手から生まれたのである。これらの作品は300年余りの歴史を経て、現在、北京故宮博物院に収蔵されている。北京故宮博物院蔵「乾隆皇帝朝服像」〔図2〕は、正装姿の乾隆皇帝を描いたもので、正式な肖像画に共通する端正な画法と色彩を用いながら、若き皇帝の個性を示す写実的な表情描写が特に注目される。乾隆皇帝は1735年〜1795年まで在位した清の第六代皇帝である。諱は弘暦で、廟号は高宗である。元号の乾隆を取って乾隆皇帝と呼ばれる。雍正皇帝の第四子として生まれ、祖父の康熙皇帝に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝として即位した。この朝服を着て宝座に坐した乾隆皇帝の肖像画は、非常に細密であり、皇室の正式な肖像画としての品格に■れている。造形はしっかりしており、正面から照らす光を重視し、側面からの光による強烈な明と暗の対比を避けることで、乾隆皇帝の顔は清廉で柔和な表情をたたえ、中国人の鑑賞眼と習慣に合っていた。これは郎世寧が中国に来てから、西洋画法の基礎の上に、中国伝統の工筆画技法を加え、新しく生み出したものだ。次に、北京故宮博物院蔵郎世寧筆「孝賢純皇后朝服像」〔図3〕は乾隆皇帝の肖像画と似て、皇后の宝冠をかぶり華麗な朝服を身につけた肖像である。やはりその性格上、画家の落款をもたないが、宝座や敷物などの表現にヨーロッパからもたらされた透視法が見え、「新体絵画」の実態を覗くことができる。孝賢純皇后(1712〜1748)は富察氏で、康熙51年(1712)2月22日に生まれた。満州■黄旗の出身であり、李栄
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