鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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1.はじめに日本の北端に位置する北海道は、その地理的・気候的・歴史的な特色を背景に、「自然」「辺境」「開放感」など特徴的なイメージでとらえられてきた。これらのイメージは、新聞報道や文学作品といった文字媒体、写真や絵画といった画像媒体、映画やテレビといった動画媒体などによって複合的に形成されたものである。なかでも昭和期に多数製作され全国各地で掲示された観光誘致のための大判ポスターは、現在まで続く「北海道イメージ」の形成と流布に多大な役割を果たした。2.栗谷川健一の足跡栗谷川健一(注1)は、明治44年、父・林忠太郎と母・たまきの第七子三男として北海道岩見沢に生まれ、母の妹・きくよとその夫・栗谷川衛の長男として入籍した。大正11年に養父が結核で亡くなると、再婚する養母について北海道栗山に移り、大正14年に栗山尋常高等小学校高等科を卒業して、札幌の中野看板店に入店した。― 125 ―⑫昭和期における北海道イメージの形成―グラフィック・デザイナー栗谷川健一の活動を中心として―研 究 者:北海道立帯広美術館 学芸課長  鎌 田   享本研究では、昭和20年代半ばより40年代半ばにかけて数多くの観光ポスターを制作し国内外で高い評価を受けたグラフィック・デザイナー栗谷川健一の活動を中心に、昭和期における北海道イメージの形成過程を考察する。栗谷川の制作活動をたどりその独自性を明らかにするとともに、観光ポスターの主たる発注者であった日本国有鉄道の広報戦略を調査することで、北海道の視覚イメージがどのような背景のもとに形作られていったのかを検証する。中野看板店は映画の手描き看板の製作を専門とし、ここでの経験が、栗谷川が宣伝美術に関わる端緒となる。その後、小樽、函館で映画看板に携わり、昭和9年には札幌の其水堂金井印刷所に画工として勤める。昭和11年には函館で独立してクリ図案社を設立し、同年、翌年と、鉄道省札幌鉄道局が募集した冬の北海道観光ポスターに、二年続けて一等入選する。そして昭和13年には札幌鉄道局の嘱託職員に迎えられ、その宣伝印刷物を制作するようになった。本格的に観光宣伝に取り組むようになった栗谷川であったが、時局は戦時色を強めていく。昭和14年に札幌鉄道局は輸送統制を開始し、旅客輸送よりも貨物輸送を優先するようになる。それに従って観光宣伝も縮小され、翌年栗谷川は札幌鉄道局の嘱託

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