3.昭和期の観光宣伝北海道の観光業が活況を見せはじめるのは、昭和戦前期のことである。この時期は、大正12年の関東大震災、昭和2年の昭和金融恐慌により、日本経済は深刻な不安にさいなまれていた。昭和3年に時の田中義一内閣は経済審議会を設置し打開策を模索するが、その諮問答申のなかに「外人渡来を拡大するため名勝の保存、ホテルの増設、其外観光視察のための諸般の施設完備を図ること」とある。これに基づいて、昭和5― 126 ―を解かれることとなった。戦中・戦後直後には札幌の映画配給会社に属した栗谷川は、昭和21年に自ら事務所を開き独立する。戦後の復興にともない、官公庁や銀行、デパートなど広範囲から、宣伝物やポスターの制作依頼がよせられた。戦後いち早く活動を再開した栗谷川は、当時の札幌ではデザイナーとしてほぼ唯一の存在であり、業務が集中したのである。多岐にわたる依頼内容のなかで、栗谷川が特に力を注いだものが観光ポスターであった。昭和26年には《夕陽と牧車》〔図1〕が、全日本観光ポスター・コンクールで特選を受賞する。運輸省・日本交通公社・全日本観光連盟の共催で昭和23年に第一回展が開かれたこのコンクールは、日本各地の観光ポスターを一堂に集め顕彰することで、全国規模での観光振興とデザインの質的向上を企図したものである(注2)。また昭和27年には《牧場の鐘》〔図2〕が、広告電通賞のポスター部門を受賞した。こちらは大手広告代理店の電通が、日本の広告活動の進歩向上を図って昭和22年より毎年設定してきたものである。さらに昭和28年には《ムックリを鳴らすアイヌの娘》〔図3〕が、リスボン世界観光ポスター・コンクールで最優秀賞を、そして昭和31年には《伝説の湖》〔図4〕が、ウィーン世界観光ポスター・コンクールで最優秀賞と市民一般投票一位を獲得した。観光ポスター・デザイナーとして不動の評価を得た栗谷川は、以後、多数の作品を制作した。しかし昭和40年代半ば以降、栗谷川の観光ポスター制作は、徐々にその数を減じていく。かわって、昭和43年の北海道開道百年記念事業や、札幌オリンピック(昭和47年開催)のための招致活動、駅や庁舎の壁画など、公的機関に関わる作品が増える。また北海道におけるデザイン活動の活性化に取り組み、昭和45年には札幌市内に教育機関として北海道デザイン研究所(現・栗谷川学園北海道造形デザイン専門学校)を創立、昭和57年には北海道デザイン協議会の発足に尽力した。北海道のグラフィック・デザイン界を牽引した栗谷川健一は、平成11年に88歳で肺炎のため逝去した。
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