鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 127 ―年には鉄道省外局として国際観光局を設置、翌年には各地の観光協会や地方自治体により日本観光地連合会(後の日本観光連盟)が発足する。また国立公園法が施行され、昭和9年には北海道の阿寒と大雪を含む8箇所が国立公園に指定された。当時観光振興の最前線を担ったのは、旅客の増大により直接的に利益を受ける鉄道省であった。昭和3年から11年にかけて同省は、日本の観光ガイドブックの端緒ともいえる『日本案内記』を編集している。北海道篇・東北篇など全8巻からなる同書は、全国の名所・景勝地を網羅し、国内観光の便に資する内容であった。また鉄道省傘下の各地の鉄道局も、独自の観光ポスターを製作し地元への旅客誘導を図った。栗谷川が一等入選した札幌鉄道局のポスター公募も、そのひとつである。昭和20年代の戦後復興期には、戦前のそれを踏襲するように各種の観光振興策がなされた。昭和21年には、活動を休止していた日本観光連盟が全日本観光連盟(現・社団法人日本観光協会)として復活、さらに国立公園の追加指定も開始される。そして観光振興のフロントラインに立ったのは、戦前の鉄道省を継承した運輸省鉄道総局であり、その後に国営鉄道事業を引き継いで昭和24年に発足した日本国有鉄道であった。とりわけ全国各地の観光地では、国鉄の各鉄道管理局(鉄道省の各鉄道局の後進)が地方公共団体や地元観光協会と三位一体となって広報宣伝に努めた。このような各観光地が個々別々に宣伝にあたる体制に変化が生じるのは、昭和40年前後のことである。この時期には、昭和39年の東京オリンピック、昭和45年の大阪万博、昭和47年の札幌オリンピックと、国家的規模でのイベントが続いた。そしてこれらの周知広報は、東京を拠点とする大手広告代理店の主導によって行われた。さらに昭和45年10月には、国鉄本社が広告代理店・電通とともに全国規模での観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」をスタートする。これは六千四百万人を超える来場者を集めた大阪万博以後の、極端な旅行需要の萎縮とそれによる国鉄の減収への対策として展開されたものである。このキャンペーンは、旅そのものへの関心を高めることで観光需要全体の底上げを図るという趣旨で展開された。ディスカバー・ジャパン=日本発見という包括的なテーマを掲げながら、個々の旅行者がその感性や関心にあわせて目的地を設定するという、新しい旅のかたちを提案したのである。それは観光宣伝戦略の一大転換点となるとともに、以後、東京発の大規模な観光キャンペーンが頻出する端緒となった。

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