― 4 ―保の娘である。雍正5年(1727)に嫡福晋となり、乾隆2年(1737)に皇后になった。乾隆13年(1748)に乾隆帝の東巡に従い、徳州で病没した。孝賢純皇后は旗籍が高いだけではなく、出身は名門官家であった。富察氏は満州の8つの大きな姓の1つである。太祖から世宗の時代、富察氏の家族には優れた人材が多く、名臣を輩出し、大清帝国の為に数多くの功績を立てた。孝賢純皇后(注6)は幼い頃から正統な良い教育を受け、礼節を学び、文化の教養が深く端正で、名家の優れた女性であった。乾隆皇帝即位後、乾隆2年(1737)12月4日に彼女は立后の儀式を行い、皇后となった。孝賢純皇后は中宮として、後宮の事務を総括した。彼女は賢く、明るく、素朴で、倹約家であり、潤沢な財政を背景にしていても、贅沢と浪費を戒めた。孝賢純皇后は夫の乾隆皇帝に対して愛情が深く、様々な面で支えとなった。孝賢純皇后のこのような人柄は、他の皇妃皇嬪からだけでなく、宮廷中の人々から尊敬と敬愛を受けた。しかし、その後、孝賢純皇后は、旅の途中に病気で亡くなった。乾隆皇帝は非常に悲しみ、昼夜を問わず孝賢純皇后の棺に寄り添い、紫禁城へ帰った。棺は彼女が生前暮らしていた長春宮に安置され、その後景山観特殿に埋葬された。この作品は、精密、且つ端麗に描かれ、その優しい表情から彼女の人柄がよく表わされ、衣服の質感と立体感の表現に卓越した技法が示されている。ここで、もう一枚の郎世寧が描いた正式な朝服像の作品を見てみよう。「慧賢皇貴妃朝服像」〔図4〕である。画面の人物像の右側に、楷書で一行の「純惠皇貴妃」と言う文字が書かれているが、墨の跡を見れば、間違いなく乾隆皇帝の直筆である。慧賢皇貴妃は満族人であり、蘇佳氏で、蘇召南の娘で、康熙52年(1713)に生まれた。乾隆皇帝より2歳下である。雍正時期に弘暦の側室となり、弘暦が乾隆皇帝として即位した後、まもなく純嬪になった。その後、純妃、純貴妃を経て、乾隆25年(1760)に皇貴妃になったが、その年に僅か48歳で亡くなった。死後「純慧賢皇貴妃」という号を賜った。この肖像画は彼女の唯一の朝服像である。画面の乾隆皇帝の手で書かれた字は、慧賢皇貴妃が死去した後のものである。それは彼の愛妃に対する思いを表した。この「慧賢皇貴妃朝服像」を見ると、郎世寧は解剖学や人物の顔の比率をきちんと把握し、五官を非常に綺麗に描写している、鼻と頬の部分の色彩は中国画の「■染法」であり、立体的な効果を出している。又、筋肉と肌の柔らかい質感をも表現している。画面の中の宝座、絨毯は前後の透視効果を創り出している。「慧賢皇貴妃朝服像」の服の皺、宝座と絨毯の部分は、線で勾勒し、伝統的な中国画の特色を持っている。この絵の表装は、清朝宮廷本来の様式を持ち、「孝賢純皇后朝服像」の構図と同じで、作風も似ており、人物の顔面の描写は精密で、ヨーロッパ絵画の透視法を持っている。
元のページ ../index.html#14