鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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3、南陽漢画像石墓の独角獣の名称と機能ここで南陽の漢代画像石にみる独角獣に立ち戻り、その名称と機能について再考し― 136 ―結駟千乗、旌旗蔽日、野火之起也若雲■、■0虎0■0之聲若雷霆。」とあり、やはり楚地方に棲息する猛獣である。春秋戦国時代を通じ、北方の国々を脅かし続けた南方の大国・楚は「凡天下強国、非秦而楚、非楚而秦。」(『戦国策』「楚」)と称されたように、秦とともに強大な軍事国家でもあった。『荀子』「議兵」には「楚人鮫革犀0■0以為甲、■如金石」とあり(注8)、■が楚の軍隊の武具として描かれることからすれば、春秋戦国時代の文献に見る「■」のイメージは、楚の屈強な軍事力と不可分のものとして解すべきであろう。2−3、「■=一角獣」のイメージ ― 『山海経』の「■」の位置づけ古来、奇怪な図像を伴うことで知られる先秦の神話的地誌『山海経』もまた楚文化圏との関わりが深い古文献であり、そこには「■」の記述が少なくない(注9)。そのうち本論で注目するのは、「海内南経」の「■在舜葬東、湘水南、其状如牛、蒼黒、一角00」との記述である。上述のように先秦の文献には「■」についての記述は少なくなく、またそれは屈強な「角と革」を特徴とする武獣のイメージを持つものであった。しかしここで強調したいのは、■が「一角」であるとの定義は、『山海経』のこの記述を以て嚆矢とするということである。後述するように、「■=一角」と定義する図付きの『山海経』の存在こそが、漢以降、「■」の辿るべき路を変えた要因として推測されるためである。てみる。3−1、南陽の独角獣と楚文化圏この独角獣を多く表わす南陽という地域は、古く春秋時代には「宛」と称され楚国の北方前線基地とされた。また秦漢を通じては、南北の交通の要衝として機能したことが知られ(注10)、南方楚との文化・経済的接触も推測される。こうした地域性を斟酌すれば、南陽漢代画像石に見る一角獣は、冒頭の②の鎮墓獣説に示されるような西方起源のものではなく、南方の楚文化圏と関わるものと見るのが穏当ではないだろうか。吉村氏が主軸とする文献的根拠は『前漢書』・『後漢書』「西域伝」の記述であるが、氏はそのうち特に、漢と国交を持った西の最果ての国「烏弋山離国」が西王母の仙境に連なるものとして理解されていた点、この地には「桃抜」「獅子」という神獣とともに「犀牛」が産するという点を強調する。しかし問題は、西王母世界を描いた南陽■■■■■■■■

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