鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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0、考以図象00、験之古今、則麒麟可得審00000也。」。000― 142 ―【図像出典】図1 南陽漢画館編著『南陽漢代画像石墓』(河南美術出版社1998)所載図2 同上所載図3 曾昭■・蔣寶庚他合著『沂南古画象石墓発掘報告』(文化部文物管理局出版1956)所載図4 中国画像石編輯委員会編『中国画像石全集・3・山東漢画像石』(山東美術出版社2000)所載図5 南陽漢画館編著『南陽漢代画像石墓』(河南美術出版社1998)所載図6 南陽漢画像石編委会編『南陽漢代画像石』図452(文物出版社1985)所載図7 林已奈夫「漢代鬼神の世界」(『東方学報』1974)所載⒄ 『論衡』「講瑞」「獣状如■、首載一角⒅ 『後漢書』「章帝紀」「在位十三年、群国所上符瑞。合於図書。数百千所。」(中華書局1998)⒆ 『集韻』「上声・蟹第十二」「獬、■,獬豸,獣名。或作■。」(『四庫全書』電子版)、『太平御覧』(中華書局1995)巻六八四引『淮南子』「楚荘王好■冠。」(今本『淮南子』「主術訓」は「獬冠」に作る。)⒇ 『芸文類聚』「獣部下」「■」(上海古籍出版社1999)■ 『山海経』「西山経」「足赤文青質而白喙、名曰畢方、其鳴自叫也、見則其邑有譌火。」等。■ 武氏祠堂の瑞祥図(徴兆石三)にみる「諸■」「畢方」は凶獣・凶鳥だが、一方、讖緯説の下に瑞祥と化した「九尾狐」は漢時代の画像石墓にも瑞獣として表される。郭璞『山海経図讃』には九尾狐と同じく瑞獣とされる「■」も同様のケースと見なしたい。■ 後漢初の王充『論衡』には、既に『山海経』に関する言及が多く見られる(『論衡』「別通篇」「説■ 『南陽漢画像石墓』第一章「二、南陽漢代画像石墓分期研究」では、南陽に分布する漢時代の画像石墓の造営年代について四期に編年している。このうち「瑞祥・辟邪・神話神仙」の図像と共に「■」の図像がとりわけ集中して表されるのは第三期、すなわち後漢初〜中期にかけての墓群である。■ 『後漢書』に所載の「讖緯家」五十八例のうち、南陽出身のものは六例を占めるという。(前掲日篇」「談天篇」「虚龍篇」等)。『南陽漢画像石墓』、第一章、「南陽漢代画像石墓産生的歴史背景」参照。)

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