鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 147 ―氣ヲ養フナク人心ヲシテ却テ卑屈ナラシムルノミ又日本ノ風俗ヲ畫ク□(事)稀ナレリ四條家ノ中コレガ改良ヲ謀リシモノアルモ皆中途ニシテ止タリ(中略)四條風ハ殆ド絶エ今ハ影ノミ殘レリ今日ノ畫ハ只畫法ヲ愛シテ眞實花ヲ愛セシニ非ズ山水ニ於テモ亦タ然リ京都ノ如キハ山水甚ダ美ニシテ且ツ富ル所ナリコレヲ眞ニ愛シタランニハ畫風一變スベシ四條風モ起ルベシ然ルニ畫家ハ矢張二三ノ法ニ拘泥シテ其畫キ方極テ少ク山水ヲ寫スモ同樣ニ寫シ出セリ今日ニ至テハ其二三ノ法スラ守ラザル者ノアルニ至レリコレ寶物ヲ熱愛スルノ情ナキヲ以テナリ今人ハ天然物ヲ愛セズシテ自己ノ技力ヲ愛セリなお、フェノロサは、「四条」という語句を使用するが、厳密な意味での四条派、つまり呉春以降の系統のみを指すのではなく、円山派や岸派、森派などの四条派周辺の写生画諸派を総称して、広義に解釈して「四条派」という語句を使用している。文中には、「應舉岸駒ノ名」や「應舉ノ畫ノ如キ其技力ハ實ニ勝ル」とあり、応挙や岸駒などの円山・四条派系の第一世代にあたる画家について、フェノロサは一定の評価を与えていることがわかる。その一方で、「應舉若クハ近時ノ畫師ノ狭小ナル範圍ヲ脱セス」や「彩色中ニハ濃淡淺深ノ度無量ナレハ彩色ヲ施スニ際シ細カニ各色ノ濃淡ヲ考慮セサル」、「大抵ハ白地ノ一隅ニノミ畫ク」、「畫家ハ矢張二三ノ法ニ拘泥シテ其畫キ方極テ少ク」、「今人ハ天然物ヲ愛セズシテ自己ノ技力ヲ愛セリ」のように、応挙以降の画家については、批判的な見解を述べている。しかし、具体的に画家の名をあげていないが、「四條家ハ注意ノ點アレ」や「四條家ノ中コレガ改良ヲ謀リシモノアル」と述べており、一部に目を見張る画家がいたことを認めている。『大日本美術新報』32号1頁の冒頭に、フェノロサの講演に関して編集者が、「論旨ハ、主トシテ京都美術家ノ奮勵ヲ促スモノナリト雖□(ドモ)、全躰ノ美術時勢ヲ論シ、殊ニ現今ノ弊ヲ舉ル等、實ニ有益ノ演説ナレハ、此ニ其筆記ヲ揚ク」と記しており、「奮励」の側面からあえて批判的に論じたとも推測させると同時に、「有益」な側面として、フェノロサは、「時勢ニ従イ変化ヲ取ラザル可ラズ」や「古人ノ法ヤ流義ニ拘泥スベカラズ唯ダ自身ノ精神ヲ活動シテ、勉強スルニ在リ」、「教授法ノ大理ハ自己ノ心ヨリ新機軸ヲ出スニ非レバ無用ニシテ」などの、絵画制作について論じている。具体的にどのような画家を評価し、作品を蒐集したのかということであるが、来日から間もない頃に、フェノロサやビゲローが蒐集した作品の一部は、狩野友信などによる鑑定に出されており、明治15年(1882)に記された一覧(注3)から、当時所蔵

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