― 148 ―Chinese and Japanese art』に基づき整理する。していた円山・四条派系の画家の作品を確認することができる。順にあげると、ビゲローの蒐集品として、森徹山や横山華山と推測できる「カザン」、フェノロサの蒐集品からは、中島来章、横山清暉、塩川文麟、円山応震、呉春の名を確認することができる。なお、フェノロサ自身が狩野派に傾倒していたこともあり、狩野派の作品が多くを占めている。彼らの蒐集品をみると、円山・四条派系の第一世代の画家にこだわることなく蒐集していたことがうかがえる。以上のことから、フェノロサは、日本滞在時に行った講演において、円山・四条派系の第一世代、つまり、円山応挙や岸駒などの画家を評価する一方で、第二世代以降の画家については、具体的な画家の名をあげて批評することはなく、むしろ批判的な立場で論じていることが指摘できる。祗園中村楼での講演が京都の画家を奮励するためであったにせよ、フェノロサが応挙以降の円山・四条派を低く位置づけたことは、幕末期の円山・四条派研究が応挙ほど活発に行われてこなかった一要因となったのかもしれない。日本滞在時にフェノロサが行った講演には、四条派の第三世代に対する具体的な評価は含まれていない。また、メモなどを別にして、その他の対外的に発表した講演にも肯定的にとらえる記述は見出せない。そのため、中村楼講演時、フェノロサが応挙以降の円山・四条派の画家をすべて把握した上での見解であったかは疑問が残る。というのも、フェノロサが蒐集したボストン美術館のコレクションや、『Epochs ofChinese and Japanese art』の記述をみれば、四条派に対するフェノロサの祗園中村楼での評価と、帰国後に記された評価が明らかに異なっているためである。このことから日本での論述を踏まえ、フェノロサが四条派の第三世代を否定したとするのは短絡的といえよう。そこで次に、フェノロサの四条派第三世代の画家に対する評価を『Epochs of⑵円山・四条派系三世代以降への評価フェノロサが日本政府の役人としての視点からではなく、純粋に円山・四条派系の第二世代以降の画家と向き合うのは、むしろ帰国後であったのではなかろうか。それは、フェノロサが帰国後に記した遺稿『Epochs of Chinese and Japanese art』に、日本滞在時には論じられなかった円山・四条派の事細かな論述が展開されているからである。フェノロサは、同書の中で、四条派の最盛期を天保11年(1840)、あるいは嘉永3年(1850)であると位置づけ、この時期には偉大な画家が多いと指摘している。フ
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